あたり前に良いもの(ほとんどコーヒーの説明になってしまった)

写真-(2)

前から通っている、下北沢のコーヒー屋さん、コフィアエクスリブリスさんで、小さい箒のお取り扱いが始まりました。(サイズやコアミなど、少し工夫してあります。)

とても素晴らしいと思って、いつも通っているお店です。
コフィアエクスリブリスでは、スペシャルティコーヒーというジャンルのコーヒーを専門に扱っています。
2000年くらいから世界含め、色々な所で流行り始めた様です。(合ってるかな)

好きな方だと、サードウェーブやら何やら、雑誌などでもよく取り上げられているので知っていると思うのですが、平たく言えば美味しいコーヒー。
どこからスペシャルティかというと、生産国各国で行われるCOE(カップオブエクセレンス)という品評会で80点以上のコーヒーの事を言うそうです。

当初は何も知らずにふらっと入り、すっかりはまってしまいました。
しかもそれは、ただ美味しいとか、こだわりの~という形ではなく、自分の知っているコーヒーとは違うやり方で作られているコーヒーでした。
普通のコーヒーと何が違うのか。どんな方法でも良いのですが、このお店では、
抽出方法が分かりやすい入口でした。ここではフレンチプレスを用いています。コーヒーといえば、とても淹れ方にこだわるイメージがあったのですが、これは注いで待つだけ。(メーカーの1つ、ボダム社は、広告で猿のイメージを使っていました。それほど簡単という事です。)

何故簡単な方法なのに美味しく入るのか。
コーヒー豆に対する考え方が全く違う事があります。

かつてのコーヒーは、苦味、えぐみなどを入れずに、如何に美味しい成分だけを入れるかという事で、温度や淹れ方、技法に様々な工夫が凝らされて来ました。
スペシャルティでは、生産方法の普及や輸送方法の発達、客観的な審査方法の確立、適正な価格設定などによって、そもそもえぐみや臭みのない豆を使うので、お湯を入れて濾すだけ。ペーパーでは濾されてしまう油分など、成分をそのまま全部味わう方法で淹れているそうです。

甘みも強く、苦味なども無いので、砂糖やミルクも、入れない事の方が多いです。
(色々入れたらもったい無いな・・・と、自分などは思いますが)
稀少価値やブランドで売っているコーヒーはプレミアムで価格が上がりますが、これは味が基準になっているので値段もそんなに高くもありません。(品種によっては高めの物もありますが)
価格も、適正に評価していくので、生産者も潤い、更に品質の向上を目指すことが出来る。
フェアトレードの様な支援よりも、自立できる技術や流通を目指している所も素晴らしいと思います。

説明すると色々ありますが、良い物なんだからそのままで美味しい。というスタンスにはとても感動しています。
丁寧に、真っ直ぐに作った物だから、余計な手もいらない。誰から見ても良い物。
自分も、そういう、もの作りが出来たらなぁ。と、とても憧れています。
(勿論、スペシャルティコーヒーはここだけでなく、全国に色々あります。)

試飲会などもよく行きますが、ワインの様に、1杯のコーヒーに対して色々な表現や
感じ方を見出せる事にとても感動します。物を深く味わい、思いを広げるというのは色々な作物に言える事かと思います。

と、すっかりはまっているのでコーヒーばかりになっていました。笑
偉そうに色々書いてしまいましたが(謙虚な紹介のつもり!)ご本人に直接聞くのが一番です。
聞けば色々お話してくださるので、是非のぞいてみて下さいね。

初めて海外に行きました。

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音楽家の叔父叔母に連れられ、ウィーンとパリに行ってきました。ハプスブルク一族とルイ王朝は、王宮文化の栄えた、世界の歴史の中でも華やかな都市の1つだと思います。

 

叔父は、コンテストに出す様なバイオリンを作ったり、作業の為の小屋も作ってしまう程、手仕事には熟達していて、今ある工芸や品物に関するかなりの範囲は王宮文化に端を発するという話を前からしていました。言葉では分かっていたのですが、実際に見てみると純粋なテクニックとしての金工、彫刻、木彫、ガラス、磁器などを極めるとはこういう事か。と、痛く実感した次第です。

(ウィーンの中心部には、新古典主義の建物でも新しくて笑ってしまう程に古い建築しかない。アールデコでかなり新しいくらい。教会や王宮ばかり回っていたので一週間、ずっとそんな事を考えていた様に思います。)

 

経済学が発達していないせいで、ひたすら財を集める事が富とされていた事や、一族の楽天的な特質のせいで、巨大というか、狂気の様な規模の工芸、建築、庭園が山ほどありました。

 

日本でも、工芸の技術は、封建的なヒエラルキーの中で鍛えられた物です。

そんな中、自分はといえば、貴族や貧富の中で生まれた文化というスタイルに抵抗をしようと、民衆的な仕事に携わるようになりました。行く前から予兆はあったのですが、自分の目指す所とは、豊かさのベクトルが真逆じゃないか…?という懸念。最初は、でか!(200回言っても言い足りない)とか、多!とか、単純なお上りさんで楽しんでいたのですが、色々と、自分の仕事と共通して考えられる事もあると気づき始めました。

 

王宮の文化は基本的に足し算ですが、様式の変化はただ装飾が増えていく訳ではなくて、考え方自体も転々として行きます。

ドイツの民衆の食文化では物資が少なく、保存が効き、寒冷地でも育つライ麦パンに、アンズ、さくらんぼなどのジャムや、チーズ、ベーコンなど保存の効く物ばかりだったそうで。日本の様に、小鉢が幾つもあったり、生の食物を沢山取れる様になったのはここ最近みたいです。

 

ただ、平原では畜産も盛んな分、チーズやバターは塗る物ではなく具の一部としてどっさりと使えます。黒パン独特の酸味も、素晴らしい物だと思います。ベーコン、ハム、ソーセージ、食卓は肉でいっぱいですが、安くて美味しくて抜群です。
そこで、他に上手い言い方がないのですが、作物の豊かさは、仕組みや分節ではなく、工夫と遊びの働きにあるのではないかと考えました。黄金とマーブルをただどっさりと集めるのではなく、もっと細工をしてみたり、楽しくしようとする心。物が無いなら無い中で、もっと工夫をしてみたり、面白がろうとする余裕。

物資の量が多い少ないに恐ろしい差がありますが、基本は変わらないのではと思います。
地面から、ただ石油が噴き出ていても、美しくはならないという話。

 

日本は、カエルが飛び込むだけで名句を詠める様な民族。王宮の華やかさは、きっとこれからの人類が越える事はなかなか無いかと思いますが、民衆が多くの遊びを担って来た日本に、豊かさの種は多く撒かれているように思いました。(普段は、国とか全然気にしないんですけどね)

余談ですが、ウィーンはあまり戦わずに王権を引き渡したのに対して、パリは市民達で引っぺがしたので、その後の美術や表現に対しては反骨精神が強い様に感じました。ヒップホッパーも沢山います。

 

言葉と物

写真 (1)

 

1966年に発行された本。サルトル、レヴィストロースなど、多くの思想家が活躍していた時期です。ポストモダン、などと言われ始める少し前ですが、やはり既存の体制や構造をばらしてしまう様な話でした。

 

言葉と物、というタイトル通り、物や考え方と言葉の関係について説明しています。

副題が、人文科学の考古学。博物学、経済学など様々な人文科学があるわけですが、それらが古典的な世界から19世紀になってどう変化してきたか。どのような作用があったか。などを説明しています。

キーワードになるのは、適合、競合、類比、共感。指示、分節化、指示作用、転移。などです。

 

当たり前ですが、記号は変化していくもの。最初の最初は物や出来事に名前を付ける所から始まる。けれど、段々その名前に色や意味や役割が付き始める。例えば、「手」という名前がついた時には、それは腕の先の一部分を指し示すだけかと思いますが、色んなイメージ(感情や仕草を表す物だったり、技術の象徴であったり)がついてきます。それは、言葉やその役割や意味の変遷と別のものでは無い。

かつての重商主義や重農主義の様に、ただ物を集める、所有が価値と考えられていた時代があります。それより以前、原初における物の価値とは何かに交換出来る事。物々交換可能な状態です。最初は自分の食べる物、自分の着る物など直接的な物ばかりだったかと思いますが、家族皆が同じ物を着るようになれば、着る物の交換の利便性は高まります。皆が畑を作る様になれば、人手が必要となれば、労働力の価値は高まります。ただ地面を石で掘っても価値は無いですが、畑で、栽培目的に掘れば価値になる。

行動、物質、縄張り、貴金属、色々ありますが、要はそれらの物が何かと、類比されて同等と考えられ、適合して流通する。その交換の中で価値が生まれるという事です。

それらの発展に従って、素材、加工、流通、労働、など、様々な要素に役割と、緊密な関係性が出来てくる。これらを表(タブロー)、言語などとも言っています。

 

博物学でも、最初は名前を付けるだけから始まったはずですが、段々と機能や作用で分類したり、役割でまとめられたりする。つまり、競合や比較が行われて、段々と表になって、博物学や生理学のような言葉が出来上がっていく。

 

恐ろしく単純化していくと、こういった記号や言葉が出来ていく過程を分析、解析した話で、人文科学自体も、生物の進化や分類の理由が説明出来るように、解剖できるんだなぁと、関心した次第です。様々な学問などを、針で要所だけ摘まんでまとめて、同じ法則や仕組みで動いているんだよ。と、新しい視点をくれるような本。

 

物を作る立場としても、これは何かを表す言葉である。というのは皆さん自覚的である所だとは思います。ただそこにどういう法則があるのかとか、どんな関係があってどういう作用があるのか、など、その専門分野を更に俯瞰した、文法が見えてくる様な本です。

何かを作って、何かを伝えたい、形にしたい人にとっては、とても道が明るくなる様な本だと思います。

スペクテイター。5月の予定

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今月の、スペクテイターという雑誌に、エッセイを書かせて戴きました。
元々、言葉を発したくて今の様な仕事をしているので、とてもとても有り難いご縁です。

よくそれっぽい事は呟いたりもしていますが、文学など、芸術全般に、とても大きな意義を感じています。
手仕事や、ほうきが好きで堪らないというよりは、どうしたら人が豊かに暮らせるか、幸せがあるか、などをずっと考えています。
みんなが、文化や良い暮らしを嗜む事に目を向けたら、この仕事とは全然違う事をやると思います。逆に
皆がどんなに目を向けない時代が来ても、何かしらの形でずっと関わり続けるでしょう。

更に、自分の作った物で何か思ったり感じてくれる人がいるとしたら、その周りの物や、自分や好きな人の暮らしや生き方にまで広げて考えてくれたらより素晴らしいと思っています。
風呂敷を広げすぎるようですが、自分の事は褒めてくれなくて良い。代わりに、世界って素晴らしい!って思ってくれたら良いなと思うんですよね。そもそも、芸術やものづくりは自分の為にある物ではないと考えています。
ほうきや、他の道具も道具の一つ。本や映画、自然や人。敷居を設けず、深く感じ入りながら生きられたらと思います。お店の方やお客さんなど、感度の高い方はたくさんいて、私の遥か向こうにいるもので・・・
精進せねばと思います。

5月27日、またヒナタノオトさんでワークショップをさせて戴きます。
今年も色々関わらせて戴けそうです。
よろしくお願い致します。

 

5月は、忙しくさせて戴いています。

・「東京蚤の市
日程:5月17日(土)11:00 ~ 18:00
5月18日(日)11:00 ~ 17:00
会場:東京オーヴァル京王閣
備考:入場料400円

・「森、道、市場
日程:5月10日(土) 5月11日(日)
時間:10:00~20:00
会場:大塚海浜緑地
備考:入場券が必要となります。

素敵なイベントでは、本当に三方良しという言葉を実感します。
皆様、良い春をお過ごしください。

ほうき展

ほうき展 ほうき展2

 

19日より、石神井公園のギャラリー、クヌルプさんでの展覧会があります。
地元であった関係もあり、毎年お世話になっています。
昨年移転、新規オープンした店舗での展示になりますので楽しみにしていました。
好きな作家さんも、よく展示なさっています。

オーナーの町田さんは伝統的な手仕事、デザインにも詳しい方で、地元の作家の紹介、井のいちの開催などもやっている方です。http://inoichi2014.i-mondo.org/

静かな方なんですが、じっくりお話を聞いていると内側からどんどん熱意が溢れてくる感じで、良い器に似てるな、なんて勝手に思ったりしています。じっくり、腰を据えていかねば・・・と、お会いする度に痛感します。

 

最近こちらでも紹介されていました。
http://mag.fufururu.jp/feature/002256.html

26日には在廊、ワークショップも開催します。
よろしくお願い致します。

・「ほうき展」
時間:10:00~19:00
日程:4月19日(土)~28日(月) ※26日、ワークショップ開催
場所:knulpAA gallery

全体性と内蔵秩序

本屋では、複雑系と書かれた棚にある本で、初めて手に取りました。

作者のデヴィッドボームは、物理学ではかなり功績を上げたらしいです。この本は幾つかの論文をまとめたものですが、内容は一貫してタイトル通りの全体性について。そしてその世界観について説いています。細かい数式は理解できないもので学問的な強度はあまり実感できなかったのですが、30年ほど前に訳されたとは思えないほど説得力があり、ラディカルな考え方でした。

ざっくりと言ってしまえば、あらゆる物が分割可能で、小さく独立した物に解体出来ると言う考え方の否定。全ては流動的に変化をしており、分断不可能なものであると言う話です。人は昔から、世界が何によって構成されているのか考え続けており、原子や素粒子について研究し続けてきたけれど、古くからの原子論は量子論や相対性理論の中では適用出来ない。(量子論の中では原子は波動のようにも振る舞い、相対性理論の中でも原子は建築ブロックの様な剛体とは捉えられない。)我々一般が考える、全てが分割された塊の構成で出来ていると言う世界観は、ある限られた文脈でしか成立しない単純化だと言う話でした。(メジャー。度と言う言葉はメディスン・医学やモデレーション・中庸などの語源で、バランスや調和を示す物だったのが、洞察の一形式ではなく絶対的な尺度に変わってしまったと言う話も面白かったです。)

ボームは物理学者でありながら、分割不可能な全体性と言う考えを素粒子だけでなく、社会の形や思考など、それこそすべてに亘る世界観として扱います。

知識、思考、実在なども物理的な、機械的な作動による働きと考えがちですが、そうではない。思考していない物は、確固たる揺るぎない物としての実在と認識され、思考されるものは不安定で揺らぐものと認識してしまいがちだ。けれど、思考は脳の環境や生理的な反応も含んでおり、知覚に入ってくる物は思考や記憶に流入し、また環境の特徴に循環していく。思考と非思考は溶け合う物で、現実は過程であると言う話です。
(全体性を内容とする思考は、詩のような、芸術的な形態として考えねばならないと言う話も、面白いと思います。詩の語源はギリシャ語の作る、poieinだそうで、ニュートンが月もリンゴも同じ秩序で落下すると言う看取も、詩的なものである。と言っています。)

また、伝統的な、機械論的秩序にたいして、ある状況を作れば徐々に表れてきて実在を確認出来る様な、全体に埋め込まれた秩序を内蔵秩序と言っています。音楽を聞くとき、人は直接に内蔵秩序を看取しているとも言っています。

 

固まった主義主張に固執して問題が生まれる事はしばしばあり、本文の中でも、学問的な解釈だけに留まらず、あらゆる事に共通する世界観として提案されていますが、大切な様に思います。

物事をこういう物だ。と、固定して、定義付けをしていく事は理性的な様で、分からない物を失くしていく安心感に基づいている様に思います。反対に、物事が流動し変化する、区別など出来ない物だと言う考えは、常に物事を解釈し直し、探し続ける事にも繋がります。生存に関しても、文化的な事に関しても、常に対応、進化してこそ続いて行くものと思います。何でも、分かった気になると安心する物で。より向上心をもって、広い視野でいたいと思います。

うたうほうき

説明しすぎて野暮ったい感じ満載なのですが、そう言う人柄なのでUPしていきます。

 

大変写真では伝わり辛いのですが、3月1日より始まるヒナタノオトでの展示で、少し変わった物を出そうとしております。

箒の一つ一つに名前を付けると言う物です。

ここ数年、天然染料は使うものの、色をカラフルにしたり構成する事は出来るだけ避けてきました。道具の機能や存在を主体に置いて、視点が移るのを避ける為です。
それは技術の安定や、最適なサイズや型を探すと言う点でも大変効率的です。さらに近年、忙しくして戴いていたせいもあり、定番の物を反復して作る機会に恵まれました。一方、ルーティンに近づく危機感も少しずつ抱えていたのです。

勿論、職人としては真っ当な姿なのですが、大量生産の前身としての手仕事やプロダクトよりは一つ一つの品物に体験や味わい、慈しむ言葉を乗せたいと考える自分としては違和感の種にもなります。

これは、そこで新たに考えてみた試みです。
編む糸に、半ばランダムに糸を継いで、偶然性の高い模様を作る。その模様や佇まいに、名前を付ける作品群を試してみる事にしました。
手仕事に関してよく、世界に一つ、と言いますが、質の高い職人物は素人には見分けが全くつかない程の安定性を理想としています。(それはそれで素晴らしい事です、しかし)そこからの脱却と言う事が一つ。それから、編んだ箒やその構成に対してより抒情的に、思い入れを持って向かい合えると言う事を目的としています。
それは何より、自分が一番強く感じており、以前より色の合わせ方や微妙な形まで敏感になりました。

写真では、殆んど分からない様な色や混ぜ方になっているのですが…!
ヒナタノオトで、実際にお手にとって戴ければ幸いです。

 

おもしろいね。とか、変わってるね。とか言って気軽にみてもらえたら最適なのですが、
なかなか機会も無いので説明してみました。

 

 

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リアリティに関して  ―展示のお知らせ

展示のお知らせだけと言うのも味気ないので、思っている事など。

 最近、手仕事のリアリティと言う観点についてよく意識しています。

 

リアリティ=現実味、実感と言う意味です。

美術で言うリアリズムには写実的と言う意味があって、絵画や彫刻で言えばプロポーションが正確であるとか、描写が精細で調和がとれている作風を指したりします。

何故か印象派以降はあまり学校で習わないのですが、近代になってピカソの様に崩れたり、シュールなモチーフなどが現れます。こういう物にだって説得力、実感、正しさがあるじゃないか!と言う話になって、現実のコピーで無く、物事を抽象した物、喩えた物、変換した物に対してリアルだ。生々しい。などの形容が使われる様になったのだと思います。ただ、個人的にはもう少し、手仕事などにも幅広く適用の出来る考え方だと思っています。

リアリティ。人に実感を与え、生命の様に迫る共感。それはどうやって生まれるのか。空気や感覚の様に全く以て掴みどころのない物かとも思いますが、大まかなフレームは幾つかあると思われます。

物の持つ

1、物理的な役回り

2、意味的な役回り

物理的。道具であれば、切る、容れる、包む、守る。または鑑賞する、伝える、など。

意味的役回りとしては、それが内部に持つ印象、考え方、スタンス、示す物などです。

 

物理的な役回り、意味としての役回り両方が、受け手の生きる世界に即した形で提示された時、作物は受けての実感、リアリティに繋がる物として認識されます。

結局はチューニングの問題なので、桃山時代にしか必要のない機能や意味を持つ物もあるでしょうし、遠く海外のセレブにしか必要のない機能や意味を持つ物もあるでしょう。

 

そして、これら対象にひたと合致する適合性をリアリティを強度の問題とした時。その次には、どんな対象や世界に繋がろうとするかと言う、質の問題がある様に思います。

その質に関して、名前がついている訳ではないのですが恐らくそれは、多くの作り手やお店、ギャラリーの方は常に心に携えている物です。自分自身に関して言わせて貰えば、息の長い物が良いし、人や世界に優しい物、穏やかでシンプルな物が良い。

作る事に携わる人は、その視座をしっかりと固める為に色々考えなくてはならないし、作物をそのリアリティに近づけて行く為、弛まぬ努力と訓練をするのだと思います。

 

とは言っても、何の説明や知識も全く無く、多くを伝えるのはとても難しい事です。

お店の方なども、ぶれる事のない精確な感覚、隅々まで満ちる集中力を駆使して、仕事や関係を作り続けてくれている様に思います。

 

楽しみにしている展示が、幾つかあります。

 

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「きれいに暮らす-春の道具展-」
手しごとの器・道具 テノナル工藝百職

2014/2/20(木)-3/9(日)11:00-18:00

※3/1(土)、2(日)の営業時間は13:00-18:00となります
※3/9(日)の営業時間は11:00-17:00となります
◎企画展準備のため2/17(月)-19(水)がお休み、片づけのため3/10(月)がお休みとなります
◎企画展期間中のお休みは2/26(水)、3/5(水)、3/8(土)です

 

「安齋 新・厚子 陶磁 | 勢司恵美 竹 | 吉田慎司 箒 作品展」
■ヒナタノオト

3/1(土)〜12(水)12:00〜19:00(土日祝 18:00まで)
木曜休み・最終日16:00まで

よろしくお願い致します。

短歌の友人

歌人、穂村弘の歌論集。2008年に伊藤整文学賞も受賞しています。
様々な媒体に載った歌論を、章立てて構成した物になっていて、一つ一つが短いのでとても読み易い本です。
基本的には、幾つかの短歌を引用して、そこに在る特性や視点、凄味、深み、時代や変遷など多くの視点から解説をしています。
歌人にとって、どう読むかと言う事も重要な仕事の様で、短歌(または歌人の感性)に対して対等、真摯かつ予断を許さず向かい続ける姿勢が、全面よりひしひしと伝わってきます。
興味深いと思ったのは、文中では「酸欠」とも表現する、現在の歌人を覆う状態や、それと連関するリアリティの変遷の説明。
斉藤茂吉など、近代短歌では「生の一回性とその重みを至上とする」が、モードの多様化(命の重さからの自由、言葉や命のモノ化と言うフェティッシュ)では死への実感の喪失が起こる。女性の詠む「僕」などに代表される「私の拡張」は、外部の物語や目的の喪失により、命の使いどころが無くなった事による。そこで、命はそれ自体が目的化して何処までも肥大化する。
また「誰もが心のどこかで、これは普通ではない、という気持ちを抱きながら普通に生きている」実感が、近年の歌では詠われている。とも指摘しています。「かけがえの無い<われ>が、言葉によってどんなに折り畳まれ、引き延ばされ、切断され、乱反射され、時には消去されているようにみえても―略―生の一回性と交換不可能性のモチーフは必ず「かたちを」変えて定型内部に存在する。」
など、短歌の詠ってきた命のスケールの大きさや広がりを強く実感する事が出来ました。
時代や社会の要求する大きな目的の喪失。身近で極個人的なモチーフを追及する傾向は、短歌や文学に限らず、あらゆるものづくりや表現にも繋がる問題であるとも思います。
クラフトと工芸の違いと言う所も、根源的にはそう言う所にあると思います。

「人類史上もっとも幸福で、しかし心のレベルとしては最低の生を生き、種の最期に立ち会おうとしている我々」ともありましたが、そう言った現実を真っ直ぐに見つめ、描き続ける歌人と言う仕事には、感服するばかりでした。

日本文学史序説

万葉集から戦後まで、日本文学の歴史について書いた本です。

あとがきに自身でも書かれていますが、文学の意味合いを広くとっており、小説、文学詩歌のみ扱う従来の文学史とは違って大衆小説や評論、経典や学術書などを万遍なく(おそらくそのバランスに大変な配慮を持って)扱い、思想史としても読める内容になっている所が特徴的です。

 

一貫した視点としては、島国日本の持つ土着的な文学(思考)と、外来の大陸文化(中国、仏教、ヨーロッパ、キリスト教、マルクス主義、それからアメリカ)が鬩ぎ合い、しかし融和も直接的な衝突もせず、並行して発達していく点です。

 

日本の土着文化とは、一貫した構造が無く部分に徹し、一神教の様な超越的な存在を持たない仕組みです。(一言でいえば短編の集合の様な作品)また、ムラならムラ、宮廷なら宮廷など、作者が集団によく組み込まれている事も指摘しています。

 

面白かった点

・鎌倉仏教が初めて、そして最後に仏教の彼岸的、超越性を時代の中核とした。

・女房社会、茶人、文人など、多くの芸からなる教養の体系を身に付けた集団があった。

・木版、俳句、間やバチの冴えを魅力とする三味線など、18世紀後半の町民文化も、瞬間の感覚を継起にしたものであった。歌舞伎なども、独立した挿話や場面の連続で、一貫した筋には大きな意味や思想がなく、部分を切り離して上演する習慣が生じた。その台詞劇も日常的な表現からなる。それは以心伝心を理想とする思想の結果でもある。

・鏡花の様な、徳川時代の抒情的、絵画的な響き、滋味、緊密を持った完成度の高い文章に対し、実人生そのままに、誰にも書ける文学を自然主義が書いた。

 

などなど。

 

とてもいい加減な言い方になってしまいますが、部分や瞬間の美学を突き詰める事、些事を大切に出来る事は、文学に限らず我々の意識に強く根付いている様に思います。

ポストモダン、価値観の多様化など色々な言い方がありますが、特化して、各々の集団の中で洗練されていく事が日本的だと言う風にも感じられました。

 

様々な宗教や思想、考え方が特に現代は大変な速度で入って来ますが、まだ独自のムラ意識を保持できると言うのは、大変な事だと思います。誇りや、礎に出来る視点が垣間見えた様にも思いました。

 

この大量の文献と比較と俯瞰、要約。それだけでも圧倒的な本です。