【雑記】言葉が届かない、分断する世界

珍しく雑誌を買いました!日経サイエンス4月号。

なんでヘイトとか保護主義とか炎上とか、人が対立するんだろう。なかなか伝えたいことって伝わらないんだろう…

というのはずっとあったのだけれど、如何に人が合理的・科学的な判断が出来なくなるか。という事をデータで解析した記事があったので読んだ。

これは調査としては、福島の原発関連のツイートを対象にしていて、最初の3ヶ月くらいは科学者の客観的な情報も流れていたけれど、1年後くらいには、陰謀論や反原発など、固定したクラスタにネットワークが分かれて固定化して、議論がなくなる。という話です。

人が合理的に判断を出来なくなる要素を雑にまとめると、

ヒューリスティック…時間や余裕がないと、権力者やマジョリティの意見を鵜呑みにしてしまう。みんないってたから本当だろう!テレビの人が言ってたから本当だろう!というやつですね。

確証バイアス…元々の自分の意見に合わせた情報ばかり拾ったり、好都合な解釈をする。

例えば政府が悪い!とか、移民が悪い!と先に思っていると、それを無意識に補強するという

社会的外圧…社会的な関係だとか、物理的な不利益などがあると、都合の良い方に解釈する。例えば村八分になる恐れがあるとすると、判断力も、そちらに寄っていくそうです。(難しいとこですが)

損失回避バイアス…客観的な利得より、損失を確定してしまう事を避けるリスクとバックがトントンでも、損失が確定する方がすごく嫌みたいです。緩和ケアとか、ワクチンが例にでてましたね

あと載っていなかったけど、ひどい目にあったのは日頃の行ないが悪いからだ!と、被害者を責めてしまう

公平世界仮説

https://psychmuseum.jp/show_room/just_world/

も聞きますね。

かつては新聞や本など、それなりに編集や取捨選択された情報を得ていたけれど、無作為に無数の情報が入ってくると如何に真っ当な判断や理解が進まないか。という事を痛感する

人は不安に弱いので、デマは6倍の速度で広まる。という記述もありました。

どうにもならないわけじゃないだろうけど、これが良いものです。とか真面目に言うだけじゃ、なかなか伝わらない。という事を改めて認識しました。

【読書】孤独なボウリング

社会関係資本、とは、地域の人々の信頼感や、関係を示す言葉です。

ロバート・パットナムがこの本を出す前からあった言葉の様ですが、「孤独なボウリング」は、膨大なデータを分析して、社会関係資本の推移や結果を示し、ベストセラーになった本です。2000年に刊行、日本では、2006年に翻訳されています。

 

地域活動が盛んって良いよね。みたいに、曖昧に話をする事もあるかも知れませんが、この本では、データによって、地域の信頼性の低い場所では幸福感が低く、教育水準も低下し、治安も悪化し、幸福感、政治参画も低下すると示しています。

何故コミュニティが崩壊したのか。それが本当に原因なのか。証明する事は難しい所ですが、これらを見ていくと、状況から、かなり妥当らしい事が分かってきます。

 

また、その原因は何なのか。これも特定は難しい問題ですが、ボランティア、地域活動の参加、知人との交流などが低下した人々の共通点に、

・時間と金銭面のプレッシャー

・郊外化、長距離通勤
大きな原因に

・テレビ視聴

・世代変化(一番大きい要因なのに原因不明。ってのもどうかと思いますが)

が示されています。

町の知ってるおじちゃんから買い物したら色々買ったりとか、井戸端会議で町の話をしたり、飲み屋で政治の話をしたり。簡単に言えば、そんな事なんだと思います。

全ての事が、人との関わりで出来ていた物から、私事化されていく様、幸福度の下がっていく様を、膨大なグラフと情報で示しています。

この本のまとめでも宣言されていますが、市民参加は多い方が良いし、信頼出来る人に囲まれて暮らす方が良い。気の合う仲間と集える事は幸せな事だし、テレビやネットがあっても、人は孤独になる必要はない。イベントや、お祭りは傍観するより、参画した方が楽しい。

当たり前のことかも知れないんですが、体系立てて、問題や意味を俯瞰するというのも大切だなと思います。我々の仕事にしても、見た目や流行、という事よりも、直接手渡せる暖かさ、信頼という価値は多分に含まれている様に思う。手を変え品を変え、というよりは、深く長く、人が繋がるような仕事をしたいと思っています。

【読書】野生の思考

「野生の思考」は、1962年にフランスの人類学者・クロード・レヴィ=ストロースによって書かれた本で、構造主義の火付け役とも言われています。

 

構造主義のきっかけや、サルトルとの論争の本としても大きな役割のある本ですが、個人的には「野生の思考」というタイトルになっている言葉の意味自体に大きな意味を感じました。

 

『「野生の思考」とは、野蛮人の思考でもなければ未開人類もしくは原始人類の思考でもない。効率を昂めるために栽培種化されたり家畜化された思考とは異なる、野生状態の思考である。』

レヴィ=ストロースは人類学者で、たくさんの原住民や森に暮らす民族の習俗や文化を比較、研究していますが、研究における彼の立ち位置を説明する事に多くのページを割いています。西洋の歴史の中では長い間、多くの原始社会を支配する、差別的な志向が中心でしたが、科学的な思考方法と対等、場合によってはそれより優れた知恵や文化を持った思考として、原始社会の思考を説明しています。単純に、我々より多く、植物や動物を分類して生活に活かしているという話もありますが、神話や習慣など、我々が理解しがたい事も、科学とは目的と手段の違いでしかないという事を強く主張しています。

 

『科学者と器用人の違いは、手段と目的に関して、出来事と構造に与える機能が逆になる事である。科学者が構造を用いて出来事を作るのに対し、器用人は出来事を用いて構造を作る』

『この二つの道は、少くとも理論的には、そしてパースペクティブに突然の変動が起こらなければ、当然合成して一つになるべきものであった。これによって理解できるようになるのは、この二つの道がどちらも、時間および空間の中において相互に無関係に、まったく別々であるがどちらも正方向の、二つの知を作り出したことである。一方は感覚性の理論を基礎とし、農業、牧畜、製陶、織布、食物の保存と調理法などの文明の諸技術を今もわれわれの基本的欲求に与えている知であり、新石器時代を開花期とする。そして他方は、一挙に知解性の面に位置して現代科学の淵源となった知である。』

 

大胆な意訳を許してもらえるならば、科学的な思考は、現象の仕組みや法則を明らかにしてから何かを実践しようとするのに対して、野生の思考は、手持ちの物(創り出した神話や環境にある自然素材など)を用いて、実践から仕組みや法則を作り出す。といえるのではないでしょうか。簡単な例で言えば、科学的な知識が全く無くとも、食物の毒抜きをしたり、屈強な構造の建造物を作り上げたり、自然物を構成して必要な道具を作り出すような事です。(特に、日本は西洋に比べて科学が導入される前の歴史が長いので、分かりやすいのではないでしょうか。)

野生の思考では、科学的な構造や普遍性ではなく、その周辺の環境に応じて世界を把握するので神話が流通する事になるけれど、科学理論とは目的と手段の違いしかない訳です。

 

『芸術哲学にとって本質的な問題は、作家が材料や製作手段に「話し相手の」資格を認めるかどうかである。』

 

芸術は、科学と野生、どちらも取り入れたものだという話もあります。人体の構造など、科学的なアプローチをしながらも、直接に物体を作り上げていきます。現代の生活においては、科学的な思考法や理由付けをする事が強くなっていますが、土地に伝わる習慣や話も、同様の説得力を持ち、実践においては強い効力を発揮する。こんな話をせずとも、芸術家や作家と呼ばれる人々の中には、理屈などはすっかり飛び越えて真実を描写したり、広大な世界を描く人が多くいますが、それらは才能という言い方もあれば、野生の思考に優れているという言い方も出来るのだと思います。科学的な理由や理屈に捉われる事なく物事に向かい合う事で得られる豊かさも、大切にしたいと思う次第です。

ロラン・バルト モード論集

ロランバルトが、モードについて論じた本です。シニフィアン(表示)、シニフィエ(内容)という様な考え方を基準に、モードを考察しています。

舞台衣装の項などでは、「衣装のモラルの基礎となるのは、いかなる場合もその劇作品の社会的身ぶりを明示することである。(略)この機能は、衣装の造形性やそれがかもしだす情緒といったものより、むしろ知的次元にかかわるものだ」「衣装の役割は眼を誘惑することではなく、納得させることなのだ。」などど、見た目の華やかさや面白さで満足する事なく、それらの意味する内容を重視した主張をしています。
(また、それらのルールや効果を調査し、体系的に考察すべきだという事を全編通して述べています。)

「モードとは、ある新作の集団的模倣である」「意味するものと意味されるものとの間の類比関係をすっかり失ってしまっている」「衣服の記号学は語彙論的なものではなく、統治論的なものだということであろう。」「モード雑誌は神話的使命によって、もろもろの記号を不動の本質として差し出す傾向がある」「衣服はつねに記号の一般的体系として構築されるとしても、このシステムの意味作用は安定していないということです。」

など、実物と、流布されているものに関連が無く、常に形を変える捉えようのないものという印象ばかりですが、その規則をとらえるぎりぎりの所まで攻めている感じはあります。

大切だと思うのは、これにより流行とは何なのかを曇りなく掴む事ではなく、仕事にしろ趣味にしろ、もれなく我々は流行の影響を受けていて、それは誰かの作為であったりもするし、掴めてもそれは日々流転するもので、常に誘惑に溢れているという事です。

流行を追いかけるだけで必死になる事もあるかも知れないけれど、それらを一つの時代の流れの中で、客観的に把握することが肝要だと思いました。

洋食器を楽しむ本

仕事柄、器や道具に触れる機会は多いのですが、背景や成り立ちについて、あまりに知らないので手に取ってみました。ロイヤルドルトンやウェッジウッドの日本のマーケティング部長をやられている方の本。詳細な資料というよりは、簡単に洋食器の全体像や意味を知るのにとても良い本だと思います

■洋食器も良いなぁと思いました。

周囲には、手の跡のある、バラ売りの、プロダクトとは真逆を行く仕事が多いので、何だか触れる前に避けてしまっている自分がいました。ところが、この本の作者の方の深い愛情を交えて、成り立ちを聞いてしまうと、変に距離を置くのも勿体無いなぁと思ってしまいます。

歴史に関しては、如何にヨーロッパやイギリスの人たちが磁器に憧れ、国家を挙げて、しのぎを削って磁器をつくるに至ったか。どのような経緯で有名窯が生まれ、パターンを発展させ、現代まで愛されるに至ったか。などを一通り見渡しています。

中でも、イギリスでどの様に食器が買われていたか、などの体験談は興味深い内容でした。ディナーセットを買うのは、結婚する時、または子どもが出ていく時など、二回タイミングがあるそうで、どのブランドにするか、長い時間付き合うものなので、じっくりと吟味するそうです。クリスマス、誕生日、特別な日にティーカップのセットを出すのなども習慣になっているそうで、とても思い入れの深い物である事が伺えました。

特に、現在の日本の食卓は多国籍ですが、やはり最適化された洋食が並ぶ景色は、全く印象が変わるそうで、とにかく、実際に盛って、食べてみないと分からないという事が何度も言及されていて、これだけ好きで詳しい方が言うのだから、そうなのだと思います。

こういう、現実的な洋食器には、まだ殆ど触れた事が無いなぁと、思いました。
パターンにも、意味や成り立ちがあるので、知ると数段楽しくなります。

■クラフトとカップ考

コーヒーが好きで、しばしばカップを手に取ります。おしゃれな物、でも持ちづらい物もある。手の大きさなどは人それぞれなので、しっくり来るものはなかなか見つかり辛いのではないか。と、思っていましたが、やはりシェイプに関しては一番気を使うのがカップだそう。また、他の皿類は、日本と違って基本的には持ち上げません。

ちょっと、いま家にあるカップ諸々に関しても。色々見直してしまいました。
周りに詳しそうな方が多いのですが、自分は知らない(意識していなかった)事も多かったので、恐れ多くも記述していきます。

セットで使われる、正式なカップはティーカップかコーヒーカップ。(どちらも、中世などではわざわざ船で運んで来た。大変な嗜好品ですね。)日本に入ったのは、1980年頃、カップが最初だそうです。寧ろそれまで湯呑みだったんですね

・ティーカップとコーヒーカップ

ティーに関しては、全く温度を下げない抽出法になるので、早めに飲める温度になる様、口は広くなるそう。重さが出る為、高さは低くなる。用途で考えれば、上が広く、中が少しすぼみ、また広がる形がベストであると明言されています。(くびれをウエスト、その下の膨らみをヒップ、高台をスカートと言うのにも、とても愛着を感じます)

ソーサーは、かつて熱い紅茶をさます為に移して飲む物として使っていう言い伝えもある。とあります。
それに対して、温度に変化が少ない方が良いコーヒーは、少し高めの円柱の形になる。理にかなっていますね。

・取っ手

取っ手がついたのは18世紀終わり頃で、それまでは湯呑み型だったそう。そしてこれは定かではないそうですが、取っ手は指を入れるものでは無く、つまむものだろうと本書の中では言っています。マグカップの様なものは、取っ手を掴む。重たいし、何でもありで、がちゃがちゃと使う庶民の器。これも定かではないそうだけれど、中国を模倣しようと追いかけてきた歴史とは別に、庶民の間で作られていたのではと言っています。その他、もっと重たくなるので取っ手のないカフェオレボール(向こうではモーニングカップと言うそう)など、あとは、大抵メジャーでないコレクションアイテムだろうという事です。
何故あんなに収納し辛くて、不安定なものを付けるのだろう、寿司屋さんみたいに分厚い湯呑みで良いじゃないかとも思っていましたが、やはり優美さや、付加価値として後から開発されたのだなぁと解釈しました。

・身の回りのカップ
クラフト界隈に関していえば、ここまで述べた様な物がミックスされている印象を受けます。勿論、当時の様に中国磁器を追いかけている訳でもないので陶器も多く、つまめる様に軽い取っ手付きカップもあまりみないかなぁと思います。マグの様に掴みながら、(指の数もまちまち、空間が大きく空いていて、敢えて無視した様な物もありますが)でもジャンクに使うでもない、一点物の陶器。などと言うと、西洋から見れば、かなり特異な文化なのだと思います。

ただ、優雅さや熱さを避けるという意味でも、重さがある点でも取っ手は使いやすい方がやはり良い。薄く軽い磁器を敢えて作らないで取り入れているのだから、その点は敏感になって良い物と思います。
また、手作りの器で豊かな時間を過ごすという意味でも、テーブルや敷物をシミから守るという点でも、ソーサー付きに越した事はないのではないかと思っています。マグの様に扱う事を、ジャンクな事とするべきか、庶民的な道具としてポジティブに捉えるべきかは、使い手、作り手、共に検討していって良い問題だと思います。

この本の中でも、フルセットは美しいけれども、単品で使う事も提案しています。昔から、実家にあった(結婚式か何かでもらったのか)洋食器に、少し違和感を感じていたのですが、やはり食文化も、建物(向こうは、場合によっては百年前の古びたカフェだったりするわけで)も違うので、洋食器を取り入れるにしろ、何かしら変形した形で使うのが全う、寧ろ、様々に文化を取り込んで来た日本式なのかなと思います。

一つ一つの手作りや愛着を味わう。というのも、貴族文化からのフルディナーセットとは全く別の味わい方で、そういった心持ちが一般の中にある、というのはとても豊かなのだろうと感じました。

〈生命〉とは何だろうか――表現する生物学、思考する芸術

タイトルの通り、生命とは何か、という事について記述している本です。それを探る為に学問(具体的には生物学)、芸術というアプローチがあるという話で、岩崎さん本人の周囲の具体例(研究者であり、アーティストの方です)を示しながら説明した本です。

学問と芸術は同じ場所を目指しているはずだ。という自論(と言っても歴史を辿れば自明の事だと思っているのですが)があったので、ふむふむ、と、納得しながら読んだ次第。生物学の最先端の話も、噛み砕いて説明してくれているので、とても面白く読みました。
宗教、学問、芸術どれも、人間や生命とは何なのか、人はどうあるべきか、という事を只管に考え続けているものと思います。

生物学の歴史や、先端の話を読んで行くと、生命を解明する際に倫理や解釈という事が不可欠になって来て、そこにアプローチ出来るのは芸術であろう。海外の例なども含めて説明しています。

生命の基本単位を細胞とした時、細胞そのものを作ろうとするボトムアップの方法と、幾つかの既存の物を組み合わせて生命を作るプラモデル方式があるという話もありました。

単純に研究や作品の発表というと、発見や表現が着地点になりますが、本来のあるべき着地点は、人の日常に還元されてこそ。と思っています。新しい発見は、薬品や具体的な制度までまとめ上げ、人の命や幸せに貢献してこそと思うし、表現は、より多くの人に伝え、社会がより良く動いた時に、初めて結果として成立するのだと思います。

恐らく、これは自分のような仕事にも言える事です。生命とは何か。という目標は、自分の中では、人はどう生きるべきか。具体的には、どう暮らしと向き合うか。という事でした。
手仕事の道具を購入したり、在り方使い方を吟味して生きていく事はプラモデル式、確かな素材を使い、より良い手仕事を創って行くことは、ボトムアップ式になると思います。素晴らしい研究は、多くの人に共有される様に、より良い手仕事や暮らしのありかたを、より多くの人と感じて行きたい。
勿論、答えはたくさんあるものだけれど、少しでも、考え、感じ、共有していく世界は、人を幸せに向かわせる物と信じています。

よく、洋服やカバンを縫ってみたり、パンを焼いてみたりしていて、作るの好きなんだね。なんて言われますがピンと来ない。作る快楽はあまり無くて、探究心が強いと思っています。正に、ボトムアップ式に暮らしを考えようと色々昔の事やアナログな事を解体して、実践しているのだと気づきました。今度から、そう聞かれたらこの本の話を借りて説明しようと思います。

資本論綱要

資本論の草稿やエンゲルスによるまとめなどが記載された本です。昭和28年初版の岩波文庫を読みました。
原書を読んだ人が研究用に読む本なのかも知れませんが、短くまとめてあるので入りやすい本ではあります。

勿論、共産党宣言ではないので、資本の仕組みがひたすらに記述されています。
資本家に労働者が酷い搾取を受ける中、エンゲルスの助けを受け、逃げながら、命懸けで資本論を書き上げた事は知っていましたが、それにしては何が悪でこうするべき。などという直接的な主張は殆どない論調だと思います。
繰り返し主張される事は、商品にはその元々の価値以上に剰余の利益を付ける為に値段が上乗せされている事。資本家はその剰余価値をつくる為、労働者を出来るだけ長く働かせようとする事、などです。また、その剰余を作らずに資本主義は成立しない。

現在の社会で考えると、所謂ブラックな経営者の形だと思います。(余分に働けばその分の収入、生産性が上がればそのぶん労働者に見返りがあるのが順当だという事自体は、我々は認識しています。)
今はないがしろにされがちですが、こういった意識が浸透しているのは、彼らの頑張りのお陰もあるのだろうと思いました。

また、これも慣れてしまったせいで当然と思っていますが、自身で作った物でも、利益が出る様に常に上乗せした価格を設定しますね。仕事であれば当然ですが、そこの利幅には何の根拠も無い。時給換算する事もありますが、物の価値と賃金は何の関係も無い。
恐らく、生活にかかるお金から逆算された値や、その周囲の相場から算出された物です。
この本の中でも、剰余価値は資本主義と切り離せない物で、それが良いとも悪いとも言っていません。
ただ、普段の自分の仕事は、他の人の時間を代わりに費やしているからその時給分を貰っているとは思いません。時間や、生産コストも含め、それ以上(または以外の)価値と向き合っている様に思う。貨幣を使って暮らしている以上、切り離せない話だとは思いました。

相対性理論入門

相対性理論と量子論は、思想上大変な事なんだと聞いていまして、気になっていました。

これは1978年の本ですが、序文にも書かれている様に文系でも分かるよう、中学程度の数式が少し入っている程度。とても苦心して書かれたようです。

(そっちの筋では偉い方の様です)

 

あまり正確に話そうとするとボロが出るし長いので端折りますが相対性、という言葉の意味する通り、光の速さや、物の大きさ、時間、などは、常に一定(絶対的)ではなく、(かなり厳密に言えば)相対的に変化をするという話でした。

 

つまり、コペルニクスが地動説を唱えた様に、ニュートンの慣性の法則も常に成立する訳ではない。

 

光の速度、力、質量、様々な人が如何に苦労して、紆余曲折をして来たかも分かる面白い本です。20世紀までこんなに物の見方や考え方がぐらぐらしていた事を考えると、本当に、世界に揺るがないものなんてないんじゃないかと思う。

 

時間や大きさが変わるなんて話、こうやって説明されなければ信じもしないなと今でも思う。きっと、地動説を初めて聞いた人もそう思ったのだろうと思いました。

いま当たり前だと思っている事が、あとで笑い話になってしまう事は、本当にあるんだなぁ。と、宇宙の話もたくさんあって、ぼんやり考えてしまいます。

どこにも、常識なんてないんだなぁと思う。

 

ある動いている物と、別の動いている物が別々の座標軸を使って動いている時。2つの差は単純に位置と動きを計算すれば良いはずだけれど、どうも大きさが変わってしまう。動いている物は大きさが収縮するのではないか。と、いう仮説が、相対性理論の前にあったそうです。

(後程、その理由が相対性理論で詳しく説明される訳ですが)

世の中でも、どっちが前だ右だ左だと、いろんな座標で話す訳ですが、ところ変われば大きさも時間も、変わってしまうのは当然だな。と思いますね。

みんな、違う速度で、それぞれの場所に歩いている訳で。
柔軟に、生きていきたい。

言葉と物

写真 (1)

 

1966年に発行された本。サルトル、レヴィストロースなど、多くの思想家が活躍していた時期です。ポストモダン、などと言われ始める少し前ですが、やはり既存の体制や構造をばらしてしまう様な話でした。

 

言葉と物、というタイトル通り、物や考え方と言葉の関係について説明しています。

副題が、人文科学の考古学。博物学、経済学など様々な人文科学があるわけですが、それらが古典的な世界から19世紀になってどう変化してきたか。どのような作用があったか。などを説明しています。

キーワードになるのは、適合、競合、類比、共感。指示、分節化、指示作用、転移。などです。

 

当たり前ですが、記号は変化していくもの。最初の最初は物や出来事に名前を付ける所から始まる。けれど、段々その名前に色や意味や役割が付き始める。例えば、「手」という名前がついた時には、それは腕の先の一部分を指し示すだけかと思いますが、色んなイメージ(感情や仕草を表す物だったり、技術の象徴であったり)がついてきます。それは、言葉やその役割や意味の変遷と別のものでは無い。

かつての重商主義や重農主義の様に、ただ物を集める、所有が価値と考えられていた時代があります。それより以前、原初における物の価値とは何かに交換出来る事。物々交換可能な状態です。最初は自分の食べる物、自分の着る物など直接的な物ばかりだったかと思いますが、家族皆が同じ物を着るようになれば、着る物の交換の利便性は高まります。皆が畑を作る様になれば、人手が必要となれば、労働力の価値は高まります。ただ地面を石で掘っても価値は無いですが、畑で、栽培目的に掘れば価値になる。

行動、物質、縄張り、貴金属、色々ありますが、要はそれらの物が何かと、類比されて同等と考えられ、適合して流通する。その交換の中で価値が生まれるという事です。

それらの発展に従って、素材、加工、流通、労働、など、様々な要素に役割と、緊密な関係性が出来てくる。これらを表(タブロー)、言語などとも言っています。

 

博物学でも、最初は名前を付けるだけから始まったはずですが、段々と機能や作用で分類したり、役割でまとめられたりする。つまり、競合や比較が行われて、段々と表になって、博物学や生理学のような言葉が出来上がっていく。

 

恐ろしく単純化していくと、こういった記号や言葉が出来ていく過程を分析、解析した話で、人文科学自体も、生物の進化や分類の理由が説明出来るように、解剖できるんだなぁと、関心した次第です。様々な学問などを、針で要所だけ摘まんでまとめて、同じ法則や仕組みで動いているんだよ。と、新しい視点をくれるような本。

 

物を作る立場としても、これは何かを表す言葉である。というのは皆さん自覚的である所だとは思います。ただそこにどういう法則があるのかとか、どんな関係があってどういう作用があるのか、など、その専門分野を更に俯瞰した、文法が見えてくる様な本です。

何かを作って、何かを伝えたい、形にしたい人にとっては、とても道が明るくなる様な本だと思います。

全体性と内蔵秩序

本屋では、複雑系と書かれた棚にある本で、初めて手に取りました。

作者のデヴィッドボームは、物理学ではかなり功績を上げたらしいです。この本は幾つかの論文をまとめたものですが、内容は一貫してタイトル通りの全体性について。そしてその世界観について説いています。細かい数式は理解できないもので学問的な強度はあまり実感できなかったのですが、30年ほど前に訳されたとは思えないほど説得力があり、ラディカルな考え方でした。

ざっくりと言ってしまえば、あらゆる物が分割可能で、小さく独立した物に解体出来ると言う考え方の否定。全ては流動的に変化をしており、分断不可能なものであると言う話です。人は昔から、世界が何によって構成されているのか考え続けており、原子や素粒子について研究し続けてきたけれど、古くからの原子論は量子論や相対性理論の中では適用出来ない。(量子論の中では原子は波動のようにも振る舞い、相対性理論の中でも原子は建築ブロックの様な剛体とは捉えられない。)我々一般が考える、全てが分割された塊の構成で出来ていると言う世界観は、ある限られた文脈でしか成立しない単純化だと言う話でした。(メジャー。度と言う言葉はメディスン・医学やモデレーション・中庸などの語源で、バランスや調和を示す物だったのが、洞察の一形式ではなく絶対的な尺度に変わってしまったと言う話も面白かったです。)

ボームは物理学者でありながら、分割不可能な全体性と言う考えを素粒子だけでなく、社会の形や思考など、それこそすべてに亘る世界観として扱います。

知識、思考、実在なども物理的な、機械的な作動による働きと考えがちですが、そうではない。思考していない物は、確固たる揺るぎない物としての実在と認識され、思考されるものは不安定で揺らぐものと認識してしまいがちだ。けれど、思考は脳の環境や生理的な反応も含んでおり、知覚に入ってくる物は思考や記憶に流入し、また環境の特徴に循環していく。思考と非思考は溶け合う物で、現実は過程であると言う話です。
(全体性を内容とする思考は、詩のような、芸術的な形態として考えねばならないと言う話も、面白いと思います。詩の語源はギリシャ語の作る、poieinだそうで、ニュートンが月もリンゴも同じ秩序で落下すると言う看取も、詩的なものである。と言っています。)

また、伝統的な、機械論的秩序にたいして、ある状況を作れば徐々に表れてきて実在を確認出来る様な、全体に埋め込まれた秩序を内蔵秩序と言っています。音楽を聞くとき、人は直接に内蔵秩序を看取しているとも言っています。

 

固まった主義主張に固執して問題が生まれる事はしばしばあり、本文の中でも、学問的な解釈だけに留まらず、あらゆる事に共通する世界観として提案されていますが、大切な様に思います。

物事をこういう物だ。と、固定して、定義付けをしていく事は理性的な様で、分からない物を失くしていく安心感に基づいている様に思います。反対に、物事が流動し変化する、区別など出来ない物だと言う考えは、常に物事を解釈し直し、探し続ける事にも繋がります。生存に関しても、文化的な事に関しても、常に対応、進化してこそ続いて行くものと思います。何でも、分かった気になると安心する物で。より向上心をもって、広い視野でいたいと思います。