今年は、中津箒みんなが忙しくて 初めて、がっつり畑の手伝いに来ています。
たまに身体を動かすと気持ちいいなー
子どもが小さくて、あまり長い本は読めないのだけれど、最近ハマったのがこちらの本でした。
「俳句という他界」関悦史
※お店のブログにも、レビュー書いた
とっても面白かった。
主に書いてあるのは、俳句が持つ他界性について。
ブログは、お店の書籍紹介なのでその紹介程度なのですが、手仕事にも繋がる話だな。と、続きがあります。
◆俳句で開く他界
俳句ではしばしば、虚と実の問題があげられています。芭蕉の話でも「虚に居て実をおこなふべし。実に居て虚にあそぶ事はかたし」『本朝文選』
との事。
また、本の中では遊びについても語られています。かつての村の祭りの中では、神に扮して舞うという事がしばしばありました。お祭り好きなら知っているのですが、怖い神様もいるし、コミカルな神様もいます。よく考えてみれば、畏れるものや、信仰するものを真似たり、模倣するというのは大変な事で、かなりの遊び心(?)というには凄すぎるものがある様に思います。
ただ結局、その模倣する、という所に「虚」と「他界性」があるという話でした。
言葉は自然や世界を表現、文字に置き換える為のもので、抽象的な虚にあたるものです。更に季語となると自然を象徴するもの。座の共通言語として背景や文脈を膨大に蓄えた、更に抽象性の高い虚と言えるかと思います。
自らの体験を元に、虚を経由して、定型の中で真実に至る。座の文芸であり、常に他界に開かれている所に俳句の前衛性がある…という話でした。
◆虚飾と手仕事
虚と実、という話で言えば、手仕事で道具を作る、というのは、最も実に近いと感じます。器なら食べること、服なら着ること、プロセスそのもので、直結している。食事、という言葉より、食事を具体的に表現出来るのは器だと思います。
個人的にも実用性、という強さは本当に揺るぎないと思っていて、民具の類も、機能性、必然性という所を主に気にかけています。
そこでいつも、装飾、という事を気にしていました。虚飾、という言葉もあります。完璧に機能性を高めて、余分を削ぎ落とした道具があるとしたら、装飾の要素はないんじゃないの?というのがあって…ただ、こちらの稲垣さんの本の中にも書いてもらったのですが
工房からの風―作る・働く・暮らす・生きる20の工房を訪ねて-稲垣-早苗
装飾も機能。という風に自分は解釈していました。
道具には、自ずから機能があるけれど、その道具が人の暮らしに寄り添う為に、装飾や意匠がチューニングをしてくれる様な考え。
でも、装飾自体にも古代から長い歴史があって、そんなオプション的な扱いじゃいけないという思いも常にあり…この俳句の話を聞いて、勝手にスッキリした次第です。
実から離れる虚 は、無内容なものでは決してなくて、
・世界を遊ぶ事→自然を模倣したり、自然界にはないもの(簡単に言えば直線とか真円とか)を作り出して別の世界を打ち立てる事だったり
・更に、共通言語として他者を繋げる
という様な壮大な役割がある。世界を作る事。他界への道を開くこと。
神は細部に宿る。とか、言葉が一人歩きし過ぎてよく意味が分からないなーと思っていたのですが、細かな装飾・ディテールで何を遊んでいるのか、それは他界に通じているのか。
という事を思うようになりました。