初めて海外に行きました。

20140626002637 (1) 20140626002637 Degi Hari Degi Hari

 

 

音楽家の叔父叔母に連れられ、ウィーンとパリに行ってきました。ハプスブルク一族とルイ王朝は、王宮文化の栄えた、世界の歴史の中でも華やかな都市の1つだと思います。

 

叔父は、コンテストに出す様なバイオリンを作ったり、作業の為の小屋も作ってしまう程、手仕事には熟達していて、今ある工芸や品物に関するかなりの範囲は王宮文化に端を発するという話を前からしていました。言葉では分かっていたのですが、実際に見てみると純粋なテクニックとしての金工、彫刻、木彫、ガラス、磁器などを極めるとはこういう事か。と、痛く実感した次第です。

(ウィーンの中心部には、新古典主義の建物でも新しくて笑ってしまう程に古い建築しかない。アールデコでかなり新しいくらい。教会や王宮ばかり回っていたので一週間、ずっとそんな事を考えていた様に思います。)

 

経済学が発達していないせいで、ひたすら財を集める事が富とされていた事や、一族の楽天的な特質のせいで、巨大というか、狂気の様な規模の工芸、建築、庭園が山ほどありました。

 

日本でも、工芸の技術は、封建的なヒエラルキーの中で鍛えられた物です。

そんな中、自分はといえば、貴族や貧富の中で生まれた文化というスタイルに抵抗をしようと、民衆的な仕事に携わるようになりました。行く前から予兆はあったのですが、自分の目指す所とは、豊かさのベクトルが真逆じゃないか…?という懸念。最初は、でか!(200回言っても言い足りない)とか、多!とか、単純なお上りさんで楽しんでいたのですが、色々と、自分の仕事と共通して考えられる事もあると気づき始めました。

 

王宮の文化は基本的に足し算ですが、様式の変化はただ装飾が増えていく訳ではなくて、考え方自体も転々として行きます。

ドイツの民衆の食文化では物資が少なく、保存が効き、寒冷地でも育つライ麦パンに、アンズ、さくらんぼなどのジャムや、チーズ、ベーコンなど保存の効く物ばかりだったそうで。日本の様に、小鉢が幾つもあったり、生の食物を沢山取れる様になったのはここ最近みたいです。

 

ただ、平原では畜産も盛んな分、チーズやバターは塗る物ではなく具の一部としてどっさりと使えます。黒パン独特の酸味も、素晴らしい物だと思います。ベーコン、ハム、ソーセージ、食卓は肉でいっぱいですが、安くて美味しくて抜群です。
そこで、他に上手い言い方がないのですが、作物の豊かさは、仕組みや分節ではなく、工夫と遊びの働きにあるのではないかと考えました。黄金とマーブルをただどっさりと集めるのではなく、もっと細工をしてみたり、楽しくしようとする心。物が無いなら無い中で、もっと工夫をしてみたり、面白がろうとする余裕。

物資の量が多い少ないに恐ろしい差がありますが、基本は変わらないのではと思います。
地面から、ただ石油が噴き出ていても、美しくはならないという話。

 

日本は、カエルが飛び込むだけで名句を詠める様な民族。王宮の華やかさは、きっとこれからの人類が越える事はなかなか無いかと思いますが、民衆が多くの遊びを担って来た日本に、豊かさの種は多く撒かれているように思いました。(普段は、国とか全然気にしないんですけどね)

余談ですが、ウィーンはあまり戦わずに王権を引き渡したのに対して、パリは市民達で引っぺがしたので、その後の美術や表現に対しては反骨精神が強い様に感じました。ヒップホッパーも沢山います。

 

言葉と物

写真 (1)

 

1966年に発行された本。サルトル、レヴィストロースなど、多くの思想家が活躍していた時期です。ポストモダン、などと言われ始める少し前ですが、やはり既存の体制や構造をばらしてしまう様な話でした。

 

言葉と物、というタイトル通り、物や考え方と言葉の関係について説明しています。

副題が、人文科学の考古学。博物学、経済学など様々な人文科学があるわけですが、それらが古典的な世界から19世紀になってどう変化してきたか。どのような作用があったか。などを説明しています。

キーワードになるのは、適合、競合、類比、共感。指示、分節化、指示作用、転移。などです。

 

当たり前ですが、記号は変化していくもの。最初の最初は物や出来事に名前を付ける所から始まる。けれど、段々その名前に色や意味や役割が付き始める。例えば、「手」という名前がついた時には、それは腕の先の一部分を指し示すだけかと思いますが、色んなイメージ(感情や仕草を表す物だったり、技術の象徴であったり)がついてきます。それは、言葉やその役割や意味の変遷と別のものでは無い。

かつての重商主義や重農主義の様に、ただ物を集める、所有が価値と考えられていた時代があります。それより以前、原初における物の価値とは何かに交換出来る事。物々交換可能な状態です。最初は自分の食べる物、自分の着る物など直接的な物ばかりだったかと思いますが、家族皆が同じ物を着るようになれば、着る物の交換の利便性は高まります。皆が畑を作る様になれば、人手が必要となれば、労働力の価値は高まります。ただ地面を石で掘っても価値は無いですが、畑で、栽培目的に掘れば価値になる。

行動、物質、縄張り、貴金属、色々ありますが、要はそれらの物が何かと、類比されて同等と考えられ、適合して流通する。その交換の中で価値が生まれるという事です。

それらの発展に従って、素材、加工、流通、労働、など、様々な要素に役割と、緊密な関係性が出来てくる。これらを表(タブロー)、言語などとも言っています。

 

博物学でも、最初は名前を付けるだけから始まったはずですが、段々と機能や作用で分類したり、役割でまとめられたりする。つまり、競合や比較が行われて、段々と表になって、博物学や生理学のような言葉が出来上がっていく。

 

恐ろしく単純化していくと、こういった記号や言葉が出来ていく過程を分析、解析した話で、人文科学自体も、生物の進化や分類の理由が説明出来るように、解剖できるんだなぁと、関心した次第です。様々な学問などを、針で要所だけ摘まんでまとめて、同じ法則や仕組みで動いているんだよ。と、新しい視点をくれるような本。

 

物を作る立場としても、これは何かを表す言葉である。というのは皆さん自覚的である所だとは思います。ただそこにどういう法則があるのかとか、どんな関係があってどういう作用があるのか、など、その専門分野を更に俯瞰した、文法が見えてくる様な本です。

何かを作って、何かを伝えたい、形にしたい人にとっては、とても道が明るくなる様な本だと思います。