


仕事納めは、箒を編む糸の染めでした。
山葡萄の皮やホウキモロコシの種、今回初めて試してみるものも幾つか。
こういう仕事に触れている人や、関係する人の中で、意匠や外見について考えたことのない人はいないでしょう。特に、人は視覚が優位と言われていて、更に近年はSNSなどでビジュアルの影響力が大きくなってきて、「意匠」以前の「見て呉れ」への注目度が高くなっているようにも感じる。
正直、僕が箒を作り始めた頃は、見て呉れも大事だった、というか、元々古臭い道具だとか過去の遺物だとか思われていたので、入口の入口から、ばっきばきのマイナススタートで、見た瞬間に「ちょっと違うぞ」と思ってもらわないと、見てすらもらえない(という場所ばかりではないということは後で知るのだけれど)という事情もあった。形骸的だろうが軽薄だろうがとりあえず見てもらって、手に取るまでいってもらえれば、道具としては優秀なので本質に近づいてもらえる、という、やや倒錯した形で作ることを始めていた。
ところが最近は、明らかにそうでもない。これは時代の変化か僕の居場所が変わったのか分からないけれど、古いものや手仕事、伝統的なものは根本的にいいもので、価値があって、残していきたい(と、十把一絡げにしてしまうのも相当危ういが)と最初から考えている人に多く会う。どこでどうなったのか分からないけれど、とにかくそんな人ばかりに会うのだから、職人としてこんなにありがたいことはない。必死にいい仕事をしたら、評価がもらえるのだから、なんて健全で、当たり前のことがまかり通る世界になってくれたのだろう、と、頭を垂れるばかりだ。
そこで、これだけ事情が変わると「意匠」「見て呉れ」問題が頭をもたげてくる。目立つ必要もないのに、目立とうとして自己主張ばかりするなんで、ただの軽薄じゃないか。恥ずかしい。道具だから見た目なんてどうでもいいはずはない。端的な機能だけ求めて他を捨ててしまうのは、明らかに大量生産大量消費世界の思想であるので、そこに対峙する僕達が作るのは機能的、かつ、美しい道具でなくてはならない。そして美学を備えていなくてはならない。
最近は、個性や作家、というのも少し恥ずかしくなってきた、というか、傲慢な気がしてきている。先人がいなければ、火も興せない、刃物も持てない僕達の仕事はほとんどが歴史からの貰い物なのだから、そこにあぐらをかいて、上書きをして、我が物顔をしてしまうとしたら、それは不遜が過ぎる気がする。それに、人間が持つ全能性への信頼が強すぎるというか、個性や、イノベーションが全てを解決できるような、急進的な意識に繋がる気すらしている。(僕はそこまで科学を頼りすぎないようにしているので、薪ストーブを使ったり、畑を耕したり、少しでも自然に近い暮らしをしたいと思っている。もちろん、大好きで感服するプロダクトもデザインもたくさんあるのですが)
でも、昔と全く同じものを作っていても、時代が変わるので仕事を残していけないのは自明のことで、少しずつアップデートや進化をしなくてはならない。そこで必要なのは、過剰な主張や上書きではなく、過去の理を学びながら、先人や、自然の意志を繋いでいくことであるように思う。
実は(?)言ってることそのまま、いいなぁ⋯⋯と思わされることは多くないのだけれど、柳宗悦が「模様とは何か」の中で
「模様は最もよく見られた自然だと云へる。だから模様に自然への見方が集結されてゐる。言い換えればその見方を通して自然が始めてよく見られるのである。今まで見た自然 より、もつと不思議な自然が見られるのである。よい模様のない時代は 自然をよく見てゐない時代だとも云へる。」
と言っている。少し意訳してしまうけれど、模様は、作為や自己主張としてではなく、自然観の結晶として表れるという話だろう。外観で「この人は先人や自然を尊重し、深く愛し、理解している」と思ってもらえたら最高だと思う。また別に、機能と美観が不可分である話は「用と美」などで、たくさん語られている。
自己主張や耳目を集める必要がなくて、真に美しい道具を作ろうと思ったら、道具の理や自然に耳を傾ければ、自ずと意匠も決まってくる、という話で恐ろしく気が遠く年季もかかりそうな話なのどけれど、そんなことを考えながら、1年の終わりを迎えようとしています。
色々言っておいて、いうほど年に何度も染める訳ではないので、ゆるゆるなんですが!手は追いつかなくても、心は曲げずにやっていけたらと思います。
来年は、自分で言い切ってしまえるくらい、人生の転機になりそうな年なので、思いを込めて、締めました。
ニワトリスペースに自作しめ飾りと並べて糸を干したので、勝鬨を上げて良い新年を迎え入れてくれる気がします!
皆様、良いお年をお過ごし下さいませ。