近況と、展覧会のお知らせ

あまりブログを更新しないので、お知らせと、近況も併せて投稿するようにしています。再生エネルギーの為に、電気工事士2種の本を読んでみたりとか、建築の本を読んだりとか(ドゥーパの、ペチカを手作りできちゃうムックとか、トキメキの宝庫だった…!)していますが、とくに最近は、どこに出すでもないのですが短い論文を書こうと思って、資料を色々取り寄せたりしています。(特に、森仁史さんの『日本<工芸>の近代』は本当におもしろくて何度も借りている…いつか買いたい。ちょっと高い)工芸とか、クラフトとか、それなりにカテゴリにはなっていると思うんですが、あまり欲しい評論(エッセイはたくさんある)がなくて、歴史的な位置付けだとか、分野として骨格があるか、時代ごとにクサビを打って次への踏み台に出来るか、みたいな構造に不安(不満?)があって、色々調べてたり考えている次第です。

工芸というカテゴリが出来る明治までの史実じゃなくて、現在のギリギリの所まで、骨格を作ったり、先を示す批評や議論があってもいいんじゃないかなー、と、常々思っている。

クラフトも、現在の形の様になるまで文脈が幾つかあって辿ると面白いです。で、立ち位置を自覚して、次に行きたい。という議論を共有したい。という次第です。

このまま論文し始めそうなので、途中でやめておく

◇以下、展示・イベントのお知らせです!◇

こちらは、自身の展示ではないですが、アトリエで行われる、イマイカツミさんの展覧会!詳しくは、がたんごとんのブログ まで!

すごく真っ直ぐで、真剣で、美しいものを見つめる方です。

「初夏の色展」
日時:2019年5月23日(水)~28日(火)
時間:11時~18時(最終日17時まで)
場所:space koh(西東京市)

梶山友里 陶器
小林真夕 花の小物
坂本友希 テキスタイル
ササキサキコ イラスト
サニーサイド 農園のドライフルーツとグラノーラ
SHINTARO COFFEE コーヒー
吉田慎司 中津箒

 

こちらも、昨年に引き続き、少し出品させて戴いています。(糸を戴き、参考出品)


「武蔵國の籠と紙2」
日時:2019年5月15日(水)~20日(火)
時間:11時~18時(土曜のみ19時まで)
場所:space koh(西東京市)

ストイックな仕事を続けられるお二人です!

 

札幌蚤の市&札幌もみじ市
日程:2019年6月15日(土)、16日(日) 入場無料
時間:9:15~16:00
会場:JRA札幌競馬場
(北海道札幌市中央区北16条西16-1-1)

こちらは中津箒みんなででます…!いよいよ、札幌での開催。楽しみです。

などなど。毎日ぬか漬けとザワークラウトと、味噌汁とドブロク飲んでて、クレイジーな量の乳酸菌を摂っているので、あまり外食が続くと違和感を感じる身体になってしまった…!!健やかに、過ごしています。

【雑記】言葉が届かない、分断する世界

珍しく雑誌を買いました!日経サイエンス4月号。

なんでヘイトとか保護主義とか炎上とか、人が対立するんだろう。なかなか伝えたいことって伝わらないんだろう…

というのはずっとあったのだけれど、如何に人が合理的・科学的な判断が出来なくなるか。という事をデータで解析した記事があったので読んだ。

これは調査としては、福島の原発関連のツイートを対象にしていて、最初の3ヶ月くらいは科学者の客観的な情報も流れていたけれど、1年後くらいには、陰謀論や反原発など、固定したクラスタにネットワークが分かれて固定化して、議論がなくなる。という話です。

人が合理的に判断を出来なくなる要素を雑にまとめると、

ヒューリスティック…時間や余裕がないと、権力者やマジョリティの意見を鵜呑みにしてしまう。みんないってたから本当だろう!テレビの人が言ってたから本当だろう!というやつですね。

確証バイアス…元々の自分の意見に合わせた情報ばかり拾ったり、好都合な解釈をする。

例えば政府が悪い!とか、移民が悪い!と先に思っていると、それを無意識に補強するという

社会的外圧…社会的な関係だとか、物理的な不利益などがあると、都合の良い方に解釈する。例えば村八分になる恐れがあるとすると、判断力も、そちらに寄っていくそうです。(難しいとこですが)

損失回避バイアス…客観的な利得より、損失を確定してしまう事を避けるリスクとバックがトントンでも、損失が確定する方がすごく嫌みたいです。緩和ケアとか、ワクチンが例にでてましたね

あと載っていなかったけど、ひどい目にあったのは日頃の行ないが悪いからだ!と、被害者を責めてしまう

公平世界仮説

https://psychmuseum.jp/show_room/just_world/

も聞きますね。

かつては新聞や本など、それなりに編集や取捨選択された情報を得ていたけれど、無作為に無数の情報が入ってくると如何に真っ当な判断や理解が進まないか。という事を痛感する

人は不安に弱いので、デマは6倍の速度で広まる。という記述もありました。

どうにもならないわけじゃないだろうけど、これが良いものです。とか真面目に言うだけじゃ、なかなか伝わらない。という事を改めて認識しました。

ヒシガタ文庫さんでの展覧会

中津箒・吉田慎司 「詩情と暮らし 展」

2019年4月20日(土)- 5月6日(日)
10:00-22:00

神奈川県で明治時代より作られている中津箒。無農薬の素材と
手仕事による優れた道具でありながら、暮らしに彩りを添える
魅力があります。セレクトされた、詩歌の本と共に展示されます。

-4/28(日)ワークショップ「豆ほうきを作る。」-
15cmほどの、筒形のほうきを制作します。
時間:①10:30〜 ②13:00〜 ③15:00〜
参加費:2000円 各回4名、所要時間1時間
・ご予約はヒシガタ文庫にて
http://hishigatabunko.com

〒065-0025
北海道札幌市東区北25条東8丁目2-1(ダイヤ書房内)ヒシガタ文庫

—————

4月には、待ちわびていた、ヒシガタ文庫さんでの展覧会があります。
詩歌の本と、共に箒を展示します。

とても青くさい言い方なのですが、素晴らしい手仕事を続けていく事がで世の中が素敵になったり、誰か幸せになるものだと信じています。
むしろ、作品を作るとは、そうあるべきとの思いです。

そこで自分の回答として、古いものに学ぶ事、文化やその在り方を探る。人に伝える、という事を実践してきました。

暮らしぶりを考える中には色々な事があって、いま一番気にしている事は、人を傷つけない事です。
それは環境問題であるとか、不当に誰かから搾取していないかだとか、未来に重荷を残していないかだとか…胸を張れる生き方があって、初めて、美しいものを手に入れられるとの思いです。

また大切な事を伝える、繋がるためには、今の様に手渡していくような仕事が最適たと思っています。(hand to hand は、今のアトリエがあるspace1-15の入口にも書いてある…)

今回一緒に展示させてもらう詩歌ですが、詩歌も、身体をもって直接的に伝える、という面では最適なものだと思っています。詩は身体から直接発せられる生々しい歌の事で、命や、世界の形を表わすものだと思います。工芸と詩は、実際的な道具と抽象的な言語、という点で対極にあるように思っていますが、対極にあるものに通底する、核心を掴めないか。と、最近は考えています。
本屋さんでの展示会は初めて?
ワクワクして臨んでいます!

寄稿・朝日新聞

本日の朝日新聞・北海道版の「北の文化」欄に寄稿させて戴きました!

取材は何度かありますが、寄稿は初めてですね!いま一番伝えたい事を好きに書かせてもらっとても嬉しかったです。

まとめると、日常の些細な暮らしの中に最も豊かな事、詩情があるのでは。という話です。

2019/3/9 朝日新聞「北の文化」

「生きているということ

いま生きているということ

それはのどがかわくということ

木漏れ日がまぶしいということ

ふっと或るメロディを思い出すということ」

これは、谷川俊太郎さんの有名な詩『生きる』の冒頭です。人にとって「生きる」とは単純に生命を維持するだけではなく、身体で感じ、心を動かし、人や世界との関係を深めるための詩情を携えていくことだと考えています。

現在私は、「生きるための道具と詩歌」をコンセプトにした札幌の店舗『がたんごとん』内にアトリエを構え、株式会社まちづくり山上の社員として中津箒(なかつほうき)という箒を制作している職人です。お店には、箒を始めとした手仕事の品々と、詩歌を中心とした本が並んでいます。美術大学を出て、箒を作り、詩歌の本に囲まれて…というと風変わりに見られがちですが、元来日本の美術と美意識の根底には素朴な生き方に籠められた詩情というものが、流れています。

万葉集の時代の貴族は、苫の庵(とまのいおり)といって貧しく慎ましい住処を味わい深い物として詠みこんでいます。シンプルに削ぎ落とされた事物に世界を凝縮し、奥行きを見出す考え方は、茶道でいえば侘び寂びであったり、仏教でいえば多即一などがあり、例を挙げればキリがありません。その中でも意味や味わいを結晶化したものの代表として、俳句、短歌、川柳などの短詩系があります。遡れば古代から続く歌謡は、政治、伝記、恋、遊び、あらゆるものを包括しながら、現代まで息づいてきました。ネットや印刷の発達もあり、若い人が革新的な活動を多く展開していることは、その詩形の生命力と可能性の証明といえます。

シンプルに洗練された物を深く味わい、その向こうに思想や美しさの広がりを感じる、ということは道具や工芸の世界でも同じです。例えば、私の作る箒は古くからの庶民の道具でありながら、「払う・清める・整える・慈しむ」など様々な思いを形にしてくれる道具です。掃除の心地よさ、物や家族を大切にする心は英語でcleaningと言っても、表現しきれない味わいがあります。食べ物を「戴く」という気持ちも、eat 以上の感謝や謙遜があり、「繕う」という事もfix以上に、心や物の在り方を整えてくれるような趣きがあります(もちろん、英語圏には英語圏の美しさがあるのですが)。誰に教わらずとも、素朴な暮らしの中にある美しさ私達は身体の中に持っています。またそれらは、いま必要とされる生き方でもあります。言葉も物も、大量に作られ、使い捨てられる時代。それらが、たくさんの歪みや悲しみを生んでいる事にも誰もが気がついている時代だからこそ、こんな仕事をしたり、残し、伝えていく人がいても良いのかな、と思っています。世界は元より日本にも、明日食べるものにも困る人や、衣食住はあっても、大変な窮地に立たされている人はたくさんいます。だからこそ、生きるとは何か、豊かさとはどこにあるのか、考え、感じ、実践し、その輪を広げていくような仕事をしたいと思っています。

今年もよろしくお願いします。

なんだか仕事やら子どもの相手やら、年末年始と、全然投稿できず…2018年も、皆さま大変お世話になりました。

2019年も、よろしくお願い致します。

あまり意識的に語らないけれど、日本には年神信仰というのがあって、新しい年に人や、周囲に感謝する、祝福する、というのはすごくいい習慣だなーと思っています。

2018年最後に読み始めたのは森田亜紀さんの『芸術の中動態―受容/制作の基層』という本でした。

中動態というのは元々言語学の用語だそうですが、メルロ=ポンティなんかを元に芸術全般に応用しています。

能動態→受動態ではなく、ヨーロッパ語圏には動作自体が主体に働きかける時に使われる態があるそうで(すごく雑にいうと、「見る」ではなくて「見える」。とか、「変える」ではなくて「変わる」とかのニュアンスでしょうか)

開いてみて、難しい本かなーとも思ったのですが、短詩系に触れているとスムーズに意味は掴めますね。(主体や客体を敢えて省略するのはよくある事で)

文法上の分類じゃなくて、誰が主体なのかはよくよく考えたい。

「法案が通った」と一言いったって、議会が通したのか、国民が通したのか、時代が要請したのか、マジョリティが押し切ったのか。「通った」という自然に起こったような言い方もするから不思議です。

おそらく中動態のイメージは、手仕事をしている人にも比較的分かりやすい話で…自分1人の力で、なにか作っていると思っている人は、とても少ないんじゃないだろうか。素材の声を聞いたり、従ったり。先達の意志が背中を押してくれたり、自分だけじゃ抑えきれない衝動が、遠くまで連れていったりしてくれる。(んじゃないかと思っています)

作品を、

「全て自らの力で作り上げました。」

ではなくて、

「できました。」

と、作品が自ずと育ったようなニュアンスがあるのも、中動的だなー、とか、思います。

いまの仕事をして多くの方と繋がらせてもらっていて、色んな刺激をもらって、色んな機会やきっかけをもらっています。

できるだけ多くのものに耳を傾けながら、できるだけ多く、深いものと関われるような、一年でありたいです。

まだ詳細が出ていないものも多いですが、2月にはマルシェに出させてもらったり、4月以降は連続して展示会の予定もあります。

今年も、よろしくお願い申し上げます。

箒と詩歌について(と、出展のおしらせ)

ほうきを作りながら何故詩歌?という質問もよくされる(何故ほうき?の方が多いですが)ので、書いておきたいと思いました。取材なんかでも、意外と掘った話が出来ないもので「暮らしを豊かにしたいと思って…(えへへ)」くらいでほわっと終わらせてしまう事が多いので…

作品の説明をする時は、ほうきの歴史だとか、機能、またはコンセプトを説明する事が多いのですが、表現するものの本分は、それ以外の所にあるように思っています。

作品が表現するものは、意味や機能よりポエジー(自分なりのボキャブラリー、と強く前置きしての広義な使い方なのですが)の方が大きいのではないか。という事です。

説明の言葉では、明快な線引きや指向性を示す事が多いのですがおそらく、より大切なのは方向性や定義じゃなくて、そのベクトルのもつ質なんじゃないかと思っている。その、意味を包括する質や雰囲気(というとまたもやっとするんだけど…オーラとかアウラとか言った方が近いかも知れない)が、作品の持つ詩情なんじゃないかな。と考えています。

箒なんかの古い道具も含めて、クラフトと呼ばれている界隈の最大の強みは、人の生活に直結している。生きる営みそのものである事だと思っています。そこに物事を見て、感じて、形にする感性があったら最高なんじゃないか。そんな詩情の、最も純化されているものが、詩歌だったのだと思います。すごく雑なんだけど、道具の対義語は言葉、だと思っている…。

逆に、日常の器や食事みたいに、詩の言葉が暮らしにあれば、最高だな。と思う。特に、日本の育んで来た短詩系は、生活と密接していて、詩歌を作る人々の生き様には、圧倒されっぱなしで…!

(また違う話ですが、美術や工芸がカテゴリとして分化される前は、芸として一緒くたにやられていたんじゃないかなー、とか思う。)

世界中の人が詩人になったら、世界が平和になるはずだ。をモットーに暮らしています。

ここまで堅苦しく直線的には話さないけど、ちょこちょこ、お店でこんな話をしたりする。

楽しく、暮らしています!

次回の出展は、いつもお世話になっている、ディギナーギャラリーさんです。

がっつり、こういう道具とかアクセサリーの販売もするけど、キレッキレの写真とか絵画の展示とか、やってのける辺りがとてもかっこいいお店です!

・「年年歳歳 2018」

日時:2018/12/13(火) – 12/27(火) 休日:17日、25日

時間:12:00-20:00/最終日17:00迄

場所:Diginner gallery workshop

工房からの風・御礼

今年も、工房からの風においでになった皆様、ありがとうございました!!

風人として、これだけの作家さんを無事に迎えられた事。事故なく開催出来た事、何より嬉しく思います。

今回担当させて戴いた一草一木テントは、草や木関連の素材を出展作家さんからお借りして、ご紹介するブースでした。手仕事の奥深い部分を見てもらいたい。より感じてもらいたい。とかねてより思っていた(改めて見返したら、風の音、初めての寄稿にも、出展前なのにそんな事書いてましたね…笑)自分としては願ってもない企画でした。

岡野さん、岡林さん、勢司さんのデモンストレーションも、とても素敵でした!!二人の制作を見るのは初めてだったのですが、とてもかっこよかった。と言うか、これが本当の姿なんじゃないか…と思うくらい。作り手は、素材に触れている時間の方が長いので、身体や佇まいがそちらに近づくのも当然なのかも知れません。

自分も、ちょろちょろっと話しながらデモンストレーションの予定が、2日とも40分くらい、ノンストップ喋りっぱなしで作ってましたね…笑

こんな事初めてで、自分でも驚いた。けど、作っていると毎日ほうきについて考えているから、エピソードや考えが幾らでも出てくる。自分で言うのもあれですが、これまでの経験があるから出来たパフォーマンスだったなと思います。

更にこのテントが、作家さんの所へ繋がる。と、確信出来ていたから、勢いづいて出来た事だったようにも思います。

唯一無二の体験でした。岡林さん達の力でとても素敵なディスプレイになったブースで、尊敬する作家さんや、愛して止まない技術や背景の話をして、詳しくは、会場のあの方の所へ!と、〆にはお客さまを送り出せるのは、風人でしか得られない喜びだった様に思います。

ご協力戴いた皆さま、本当にありがとうございました。

・・・・ちょっと違う話なんだけど

風を興す、人を繋ぐ。自分が作る事と違う事の様で、すごく根本的に大事なのではないかと、実感する機会にもなりました。

どんな芸術も、文化も、背景や繋がりなくては生まれていないはず。それは土地だったり、体制だったり、思想であったり、経済であったり、時にはおばあちゃんから受け継いだものだったりする。時代がくるくると変わって自由な分、拠り所もない現代だから、これはどんなもの?どんな思いで来たの?という事を明らかにしたり、時には築いて行かなくてはならないのでは。という事も、体感として強く思いました。どんなに素敵なものでも、理解したり、感じられる土壌がないとその実力が充分に伝わらない。というのはままある事のように思います。

その場所や歴史や背景を吸収しながら、世界に喜びを与えられるのが、作家なのだと思います。

こうやって、場所づくりに関われる事が自分の仕事や、生きる世界に大きく還元される事を現場で実感しています。とても大きな話をしている様で、それを確実に実現してくれている出展作家の皆さま、スタッフの皆さま、そしてご来場の皆さまには、毎年感謝の気持ちでいっぱいです。

きちんと、自分の仕事にも還元していきしたい!

また来年も、心地よい風が通りますよう。皆様のご活躍、日々の充実をお祈りしております。

しばらくは、籠って制作予定です。アトリエショップでも、色々企画があるようです。お楽しみに!!

『工房からの風』一草一木について

今年も、工房からの風で、風人としてお手伝いさせて戴きます!!

今週末です。

工房からの風

日時:2018/10/13(土)・14(日)

10:00~16:30

会場:ニッケコルトンプラザ屋外会場

今年のテーマは、五行の木火土金水の木。一草一木をピックアップするとの事で、じっくりめ実演、デモンストレーションをします。

毎回思う事ですが、活躍する、錚々たる作家さんに囲まれて身の引き締まる思いです。

一草一木とは、期せずして自分が一番大切にしてきたテーマだと思います。

たくさんの物や情報が流れていく世界の中で、大切なものは何だろう。と、探し続けていました。豊かに、幸せに暮らすためには、本当はそんなにたくさんの物は必要なくて、心から大切に思える一つを見つける事こそ大事だと思っています。

一本の草、一本の木にも生命の循環があり、恵みがあり、宇宙がある。その豊かさに気づく為、手仕事に携わっているのだと思います。

例えるならば、今回出展してくれる作家の皆さんも一本の草、一本の木の様で…

各々、根付いた土地と大気の力を命の限り吸いこんで、身体に行き渡らせ、形にしている人達だと思います。自分の手と、そこから生み出されるものに身を委ねる恐怖と、希望と、背負っている重みは痛いほど分かるので、その一人一人がより本来の姿を結実できるよう、立ち回る風人でありたいと思います。

近況、と9月

すっかり滞ってしまいました。

変わらずやっています。SNSの投稿も減りがちなのですが、代わりに、アトリエショップのブログをたくさん書いています。

殆んど、詩歌の事ばかり?少しずつ、お店めがけて来て下さる方にお会いできたり、メディアなどにも取りあげて戴く事が増えてきました。

箒だけやってても何故箒?と聞かれるのに、更に詩歌の本を扱っていると、個性的ですね。と言われるのですが…暮らしや、生きる事を肥沃にしたり、味わいや気づき、思考を促す為に作るのだから、身近な暮らしの道具を作るのは自然な方法で。行間や味わい、凝縮した視点の結晶のような詩歌に触れるのは、当然じゃないか。と思っています。

すごく雑な言い方をすると、世界が美しく見えたり、幸せに近づいてもらえるなら、自分の箒でも、人の詩を読むのでもいいんじゃないか。という…

(が、やっぱり、自然の素材で、古来の風習に繋がっていて、シンプルで恒久性のある道具、というのは自分には最適だと思っている。でもやっぱり詩でしか届かない領域も多く感じる)

真面目な作り手の方に聞かれたら怒られそうだな…と思いつつも、明治以前の文化的な人は、器だろうが歌だろうがシームレスに嗜んでいたはずで、縦割りにならない方が正しいのでは?とかも思ったりしています。本当は、文武両道まで言えると良いんでしょうけれど、運動不足は極まっています。達者の道は遠い…

7月は畑の手伝い(たのしかった!)に行ったり、8月は制作。9月からイベントや出張が始まります。

カゴアミドリさんでは、国産の箒の作り手を集めた、かなりエッジの効いた展示になりそうです!ワークショップやトークもあります。

そのほか、9月は上海の見本市にも出張予定。

どうなるかな〜

・「種から育てる箒」展

日時 : 2018年 9月12日 (水) ~ 9月23日 (日)※17.18日休み

時間:10 : 30 ~ 17 : 00

場所:カゴアミドリ

虚と装飾でつくるもの

今年は、中津箒みんなが忙しくて 初めて、がっつり畑の手伝いに来ています。

たまに身体を動かすと気持ちいいなー

子どもが小さくて、あまり長い本は読めないのだけれど、最近ハマったのがこちらの本でした。

「俳句という他界」関悦史

※お店のブログにも、レビュー書いた

書籍紹介ー「俳句という他界」関悦史さん(邑書林)

とっても面白かった。

主に書いてあるのは、俳句が持つ他界性について。

ブログは、お店の書籍紹介なのでその紹介程度なのですが、手仕事にも繋がる話だな。と、続きがあります。

◆俳句で開く他界

俳句ではしばしば、虚と実の問題があげられています。芭蕉の話でも「虚に居て実をおこなふべし。実に居て虚にあそぶ事はかたし」『本朝文選』

との事。

また、本の中では遊びについても語られています。かつての村の祭りの中では、神に扮して舞うという事がしばしばありました。お祭り好きなら知っているのですが、怖い神様もいるし、コミカルな神様もいます。よく考えてみれば、畏れるものや、信仰するものを真似たり、模倣するというのは大変な事で、かなりの遊び心(?)というには凄すぎるものがある様に思います。

ただ結局、その模倣する、という所に「虚」と「他界性」があるという話でした。

言葉は自然や世界を表現、文字に置き換える為のもので、抽象的な虚にあたるものです。更に季語となると自然を象徴するもの。座の共通言語として背景や文脈を膨大に蓄えた、更に抽象性の高い虚と言えるかと思います。

自らの体験を元に、虚を経由して、定型の中で真実に至る。座の文芸であり、常に他界に開かれている所に俳句の前衛性がある…という話でした。

◆虚飾と手仕事

虚と実、という話で言えば、手仕事で道具を作る、というのは、最も実に近いと感じます。器なら食べること、服なら着ること、プロセスそのもので、直結している。食事、という言葉より、食事を具体的に表現出来るのは器だと思います。

個人的にも実用性、という強さは本当に揺るぎないと思っていて、民具の類も、機能性、必然性という所を主に気にかけています。

そこでいつも、装飾、という事を気にしていました。虚飾、という言葉もあります。完璧に機能性を高めて、余分を削ぎ落とした道具があるとしたら、装飾の要素はないんじゃないの?というのがあって…ただ、こちらの稲垣さんの本の中にも書いてもらったのですが

工房からの風―作る・働く・暮らす・生きる20の工房を訪ねて-稲垣-早苗

装飾も機能。という風に自分は解釈していました。

道具には、自ずから機能があるけれど、その道具が人の暮らしに寄り添う為に、装飾や意匠がチューニングをしてくれる様な考え。

でも、装飾自体にも古代から長い歴史があって、そんなオプション的な扱いじゃいけないという思いも常にあり…この俳句の話を聞いて、勝手にスッキリした次第です。

実から離れる虚 は、無内容なものでは決してなくて、

・世界を遊ぶ事→自然を模倣したり、自然界にはないもの(簡単に言えば直線とか真円とか)を作り出して別の世界を打ち立てる事だったり

・更に、共通言語として他者を繋げる

という様な壮大な役割がある。世界を作る事。他界への道を開くこと。

神は細部に宿る。とか、言葉が一人歩きし過ぎてよく意味が分からないなーと思っていたのですが、細かな装飾・ディテールで何を遊んでいるのか、それは他界に通じているのか。

という事を思うようになりました。