短歌の友人

歌人、穂村弘の歌論集。2008年に伊藤整文学賞も受賞しています。
様々な媒体に載った歌論を、章立てて構成した物になっていて、一つ一つが短いのでとても読み易い本です。
基本的には、幾つかの短歌を引用して、そこに在る特性や視点、凄味、深み、時代や変遷など多くの視点から解説をしています。
歌人にとって、どう読むかと言う事も重要な仕事の様で、短歌(または歌人の感性)に対して対等、真摯かつ予断を許さず向かい続ける姿勢が、全面よりひしひしと伝わってきます。
興味深いと思ったのは、文中では「酸欠」とも表現する、現在の歌人を覆う状態や、それと連関するリアリティの変遷の説明。
斉藤茂吉など、近代短歌では「生の一回性とその重みを至上とする」が、モードの多様化(命の重さからの自由、言葉や命のモノ化と言うフェティッシュ)では死への実感の喪失が起こる。女性の詠む「僕」などに代表される「私の拡張」は、外部の物語や目的の喪失により、命の使いどころが無くなった事による。そこで、命はそれ自体が目的化して何処までも肥大化する。
また「誰もが心のどこかで、これは普通ではない、という気持ちを抱きながら普通に生きている」実感が、近年の歌では詠われている。とも指摘しています。「かけがえの無い<われ>が、言葉によってどんなに折り畳まれ、引き延ばされ、切断され、乱反射され、時には消去されているようにみえても―略―生の一回性と交換不可能性のモチーフは必ず「かたちを」変えて定型内部に存在する。」
など、短歌の詠ってきた命のスケールの大きさや広がりを強く実感する事が出来ました。
時代や社会の要求する大きな目的の喪失。身近で極個人的なモチーフを追及する傾向は、短歌や文学に限らず、あらゆるものづくりや表現にも繋がる問題であるとも思います。
クラフトと工芸の違いと言う所も、根源的にはそう言う所にあると思います。

「人類史上もっとも幸福で、しかし心のレベルとしては最低の生を生き、種の最期に立ち会おうとしている我々」ともありましたが、そう言った現実を真っ直ぐに見つめ、描き続ける歌人と言う仕事には、感服するばかりでした。

日本文学史序説

万葉集から戦後まで、日本文学の歴史について書いた本です。

あとがきに自身でも書かれていますが、文学の意味合いを広くとっており、小説、文学詩歌のみ扱う従来の文学史とは違って大衆小説や評論、経典や学術書などを万遍なく(おそらくそのバランスに大変な配慮を持って)扱い、思想史としても読める内容になっている所が特徴的です。

 

一貫した視点としては、島国日本の持つ土着的な文学(思考)と、外来の大陸文化(中国、仏教、ヨーロッパ、キリスト教、マルクス主義、それからアメリカ)が鬩ぎ合い、しかし融和も直接的な衝突もせず、並行して発達していく点です。

 

日本の土着文化とは、一貫した構造が無く部分に徹し、一神教の様な超越的な存在を持たない仕組みです。(一言でいえば短編の集合の様な作品)また、ムラならムラ、宮廷なら宮廷など、作者が集団によく組み込まれている事も指摘しています。

 

面白かった点

・鎌倉仏教が初めて、そして最後に仏教の彼岸的、超越性を時代の中核とした。

・女房社会、茶人、文人など、多くの芸からなる教養の体系を身に付けた集団があった。

・木版、俳句、間やバチの冴えを魅力とする三味線など、18世紀後半の町民文化も、瞬間の感覚を継起にしたものであった。歌舞伎なども、独立した挿話や場面の連続で、一貫した筋には大きな意味や思想がなく、部分を切り離して上演する習慣が生じた。その台詞劇も日常的な表現からなる。それは以心伝心を理想とする思想の結果でもある。

・鏡花の様な、徳川時代の抒情的、絵画的な響き、滋味、緊密を持った完成度の高い文章に対し、実人生そのままに、誰にも書ける文学を自然主義が書いた。

 

などなど。

 

とてもいい加減な言い方になってしまいますが、部分や瞬間の美学を突き詰める事、些事を大切に出来る事は、文学に限らず我々の意識に強く根付いている様に思います。

ポストモダン、価値観の多様化など色々な言い方がありますが、特化して、各々の集団の中で洗練されていく事が日本的だと言う風にも感じられました。

 

様々な宗教や思想、考え方が特に現代は大変な速度で入って来ますが、まだ独自のムラ意識を保持できると言うのは、大変な事だと思います。誇りや、礎に出来る視点が垣間見えた様にも思いました。

 

この大量の文献と比較と俯瞰、要約。それだけでも圧倒的な本です。

判断力批判

カントの、純粋理性批判、実践理性批判に続く、三批判書と言われる三冊の最後の本になります。

人が美的判断をする時、どのような意識や判断力を用いているのか。それらは何に起因するのかなどを徹底的に解説した本です。

 

個人的に関心のある点だけついばむと

・本人にとって感覚的満足を快適、快い物が美、客観的価値の認められる物が善となる。

・美とは概念を用いずに普遍的適意の対象として表象されるところのもので、それは個人的な感覚でなく普遍妥当的判断である。

・理想は、道徳的な理念など、理性による善とから生まれる物であるので、理想的な美と言う物はあり得ない。

・崇高とは、他と比較して、如何なる感官をも超越する心を示す物である。

・快は分量によってしか説明され得ないが、美は性質を必要とする。

などがありました。

 

この他、詩や音楽、自然など、あらゆる美学的な判断を解説しています。

大半は、それらの根拠や厳格な説明についてページが費やされていて、徹底的な論考がつまっているので、とても一言にまとめる事などは出来ない内容になっています。

 

ただ、この中で基本の基本となっている、快感と、美と、善は異なると言う点は、日々考えていた、または問題として抱えていた点です。

 

カントは只管に、緻密に、判断力を分析していくのみで快と善のどちらが上位であるとか、どうすべきなどの主観的な感情や方向性などを排除しています。

勿論、哲学や論理に対して最も忠実であろうとすればそうなるとは思うのですが。

やはり個人的、感情的には、只管安楽を求める暮らしよりも向上心や正しい事に向かう生き方でありたい。美や善が、誰にも美や善と認識される世界であって欲しい。

これは恐るべき事に18世紀の本なので、宗教や体制の大きな違いがあって現代とは違う訳ですが、ポストモダニズム、資本主義民主主義の浸透しきった我々の暮らしでは、鑑賞者各々が抱える判断力の責任がとても大きい。美と善の判断が出来ず、ただ快感だけが消費され、美や善が淘汰されていくのではと、日々懸念しています。

精神分析の四基本概念

ジャックラカンの講義を記録した、代表的な本です。
ラカンは講義録が多く、あまり本は残していない様です。

 

フロイトの「無意識」「反復」「転移」「欲動」を発展させ、幅広い内容に言及しています。
生徒を啓蒙する為か、何だかも回りくどい様な言い回しも多くある本ですが、大変な密度と精確さが詰まっており、
とても興味深い本です。

どの理論の中でも、主体は他者(または物)を通して確認されると言う事が基本になっています。
欲望や意志は、他者に反射され、帰ってくる際に形となる。

また、シニフィアン(表象内容)・シニフィエ(意味内容)と言う考え方も代表的です。
「私は嘘をつく」と言った時、これは嘘をつくと予め言っているので発言は矛盾すると言えるかも知れませんが、
「嘘をつく」と言う「私」は表象であるだけで、内容と表象は分離する別々の物だと言う事です。

色んな物が、「他者」との関連で説明されます。欲望は他者の欲望であるなどとも言いますが、それは、
周囲の様々な物で主体が現れる中で、欲望が発生すると言う意味(だと思われます)

 

などなど、元々は読む本のなかにしばしばラカンが出てくるもので、参考に読んでみたのですが考える事もたくさんありました。
物を作って、伝えるとか表現とか何たら言っていると、自分が発して人を納得させる様な方向が強くなりますが、物を見ると言う事はその物に見られていると言う事で、そこに初めて自分の視線が確立される。
時代や空気に敏感である事は大事ですが、そもそも自分の考える事や発すること自体が他者からの視線を通して作られている。

大きく束にしてしまえば、伝わった。と思える様な反応が(表象の方が良いでしょうか)向かいから返って来た時、初めて自分が言葉を
発した事になる。(対象がなければ、それがやまびこや反響だとしても何も無いと形にはならないですものね)

より謙虚に、対外的な関係には自覚的でありたいと思いました。

時枝誠記「国語学言論」

西洋言語学でベーシックなソシュールの言語理論を批判し、言語過程説と言う理論を提唱した本です。
言語学、記号論、とは言え、厳格で精緻な展開は徹底した哲学が感じられて、とてもエキサイティング。

ものづくりと記号論と言うのも面白いなと思って感想をまとめました。

□□□□□□□□本のまとめ□□□□□□□□

言語過程観に対する、言語本質観とは、言葉に概念が当てこまれていて、それを引き出して我々が使用していると言う事です。しかし時枝さんに言わせると言語の本質は「概念ではなくして主体の概念作用にある」。
言語が成立するのは「言語それ自身が媒体としての職能を有するからではなく-中略-同一概念を想起するし得る習慣性が万人の間に成立しているからである」とあります。

辞書を引けば言葉の意味は載っていますが、それを組み合わせれば言語の理解に直結するかというとそうではない。
例えば
「大黒柱が倒れた」と言った時、本当に柱が倒れたのか、それとも家の働き手が倒れたのか判断出来ない。「山」と言った時、それが自然の山なのか危機的な状況の事なのか、もしかしたら誰かのあだ名かも知れない。けれども、我々は会話を成り立たせる事が出来る。これは、言葉が道具としてではなく、習慣によって成り立っているからではないか。と言う話です。

その他の例だと、言語は歴史の中で風化して、変遷していく岩ではなく、多くの人に描かれ形を変えていく絵画と言う例えもありました。

言語過程説自体はこれ位ですが、その後も各論で音声、文字、文法など、次々に紐解いてあります。

□□□□□□□□□□以上本のまとめ□□□□□□□□□□

個人的な感想として、言語に関しても面白いですし、ものを表現する仕事としても、大いに繋がる話だなぁとは思いました。
時枝さんの批判するソシュールに依れば、言葉はシニフィアンとシニフィエ(表現と内容。極端に言えば、標語の「ダメ絶対」の意味がシニフィアン、フォントや文字そのものがシニフィエと言う様な)などと言いますが、意味なんて人や環境で幾らでも変わってしまう。

赤色を見た時、女性らしいと思うか男性らしいと思うか、それとも政治的と思うかなど、本当に何も決まっている事なんか無くて、それでもある程度の人数の人とは感じ方を同じく出来てしまう。本当に、全て伝達行為と言うのは習慣で成り立っていると思う。
(例えば原発と言う言葉だって、出来た頃は夢に溢れた装置の極みだったかと思うのです)

漆を見て、かっこいいと思うか古臭いと思うか懐かしいと思うか。丸い形を見て可愛らしいと思うか単調と思うかありがちと思うか。
そう言う無数の要素と習慣、積み重ねて来た歴史と、血肉となった習慣が合わさって、一つの言葉になっているんだなと思います。
そんなの、全部根拠を理論付けて行くなど途方も無いので、表現活動では直感が大きな力を持つのだとも思いました。

時代も環境も、こうして行く内にみるみる変化して行くし、自分が作ったものの意味も刻々と変化している。常に疑って、感じ取って、信じて行かねば。と言う感想でした。

(また、余談になりますが、単語に関する話の中で、そもそも日本語において所謂単語として括る事が困難と言う話があります。この本と言った時、「こ」は独立して使えないだけで単語ではないか。ヒノキ、クスノキ、など一単語であるが元来は別の言葉である。など、疑問の余地のある例が多々あります。その為、この本では詞と辞と言う分類で文法を解説していて、日本語に比べると印欧語は詞辞が結合した文節に近いと言う記述があります。そもそも、日本語は主語述語などで分けられないと言う話も良く本には載っていますが、何の疑問もなく学校でそう習うのは凄い事態だなと思います。)

 

1940年の本。全く古びない事に感動。

構造と力

やたら小難しそうな事を、しかも恐ろしく乱暴に無理やりにまとめているので、まとめ以降を読んだ方が楽しいかも知れません。

□□□□□構造と力□□□□□

自分と同い年くらいの本ですが、当時、難解な内容の割にベストセラーになったそうです。ニューアカと言うやつか。

この本では、象徴秩序と言う物と、その作用が見えてくると、概ね内容は分かると言う感じかと思いました。

まず、人間は過剰であると言う事から始まります。人間は自然の物でありながら、動物の様に欲求のまま生きる事は出来ない。自分や仲間を傷つけたり、わざと自分を苦しめたり、規制をかけたりする。ジェノサイドもある。シェーラーは、「おのれの衝動不満足が衝動満足を超過して絶えず過剰である様な(精神的)存在者」を人間としているそうです。

贈与の一撃と言う言葉があって、純粋な贈与ではなく、人に何かして貰うと、様々な環境や関係から、利益だけでなく恩義や義理も貰う様になる。数えきれない人間関係と繋がりで混沌となった社会で、それら過剰を一身に受け止める物が出てくる。それが象徴秩序となる。それが、原始社会では祝祭であったり、王政であったりする。(超コード化)

更に貨幣経済などになると、脱コードと言って、どこに中心点があるか分からない事になる。
分かりやすい例だと、
「前近代」ある教室に子ども達がいて、正面に監督がいる。授業中は我慢しているが、休み時間になると多いに騒ぎ、生き生きとしている。
「近代」同じ広さの教室だが、監督の姿は見えない。しかし背後にいるのが分かる。休み時間でも授業中でも、いるかいないか分からないので、結果的に子ども一人一人の内に監督が存在する様になる。自由がある故に、休み時間も遊べなくなる。

と言う様な例があります。
クラインのツボだとか色んな例があげられているのですが、全体を監視、規制する物が個々に内在化して、それがまた全体を監視すると言う循環する状態です。(脱コード)
□□□□□まとめ終わり□□□□□

こう言う、各々を監視する文脈と構造の問題は、とても気にしている問題です。工芸に於いて、全体を統率する物があった状態と言うのは、(例えば宗教であったり王政であったりパトロンであったりする)とても指針が見えやすく、上昇しやすい状態に思う。
我々の祖父母くらいだと、その秩序が解体される前の余韻があって、無条件に良いとされるもの(例えば桐タンスとか藍染だとか漆の椀。勿論今も素晴らしいものだけれど)がある。

勿論、人は向上心を持っている限り向上していると思う。けれど、経済を大きく動かすと経営に成功していると言うだけで、それは価値とはまた別の話であって。それ以外の基準は本当に闇雲な気がしています。
この本にもあった通り、または多くの哲学者が言う様に、我々の志向を一つにする物は存在しない。しかし、作る事で、それを描く事で、最大公約数の人を幸せに、豊かに出来ると信ずる限りは大きな答えがあると信じたい。

とりあえず、古くからあり、合理性に純化した道具はそれに近づいていると思っているのですが。

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