おひつを買う時に考えた事

最近は、 中津箒みんなで出展する事も増えまして、忙しくさせてもらっています。(全てに出ている訳ではないですが…!)詳しくは、中津箒HPをご覧下さい。(丸投げ 笑)

 
おひつについてしばらく考えていました。何でも、理由が定まらないと物も買えない人で、上手く整理がつかなくて、買う買う詐欺みたいになっていました。
なんの文献とか裏付けもないんですが、買う前に考えた事。

まずビジュアルと存在からして素敵なんですが、気になった事に、これは贅沢品なんだろうか。という事がありました。ボールでも良いやとか言い始めたら、100円で買える。
でも、元来家庭に必ずあった物で、皆が揃って同じ贅沢品を買う趣味だったとは考えて辛い。高いとしたら、その分何かしらの価値があるはずだ。価値を説明する際に、機能性の高さは説得力の一つだと思います。鍋であれば、蓄熱が良い、熱効率が良い、丈夫。刃物であれば、良く切れる。ずっと使える。など。おひつは、ご飯が美味しくなる。保存に適する。という事が第一だと思います。その他、大家族の農家においては、朝にまとめて炊いて、お釜を空ける。という用途もあったのでは。という話もしましたが、炊飯器で炊く現代では、あまり関係ない話の様に思えます。
思った事1 お米が大切だったのでは

じゃあ、同じお金を使って美味しい米を食べるだけならば、普段の米よりも良い魚沼産コシヒカリを買うのと同じ事なのだろうか。それも違うと思った。

ここは、お米への敬意があったのではと、推測しました。これも体感よりは、聞いた話にしかなりませんが、一粒の米も無駄にしない。というのが、古くからの日本の考え方だったようです。現在の貨幣同様に扱われていた米。庶民は口に出来なかった米。を考えると、貴族や武家で米を食べる際は、土間で煙に塗れた羽釜から直接器に盛るという事はせず、丁重に、容れ物に移していたのではないかと考えるのが普通ではないか。

その大切な米が、時代の変化と共に庶民の口に入って来たと考えると、米の価値が下がりぞんざいに扱われるのではなく、やはり丁重に、少しでも美味しく食べられるよう、何かに移すのでは、と考えるのが自然では。と思いました。
思った事2 実は高くないのでは

おひつと共に使われていた米の保存方法は、飯カゴだと思います。夏場は、布に来るんで籠に入れて、軒先にかけておく。乾燥しない様にして、風通しの良い所に置く。最小限な手間の方法だと思います。ただ、籠に下げようと思って、いま籠を買おうとすれば、国産ならばやはり数千円じゃあまず利かない。考えてみれば、当時は国産材、手紡ぎ、手織りの服しか着ていなかったし、オーガニックな食事と暮らししかしていなかった。(その分、信じられない位に使い倒していたし、ひもじい思いをしていた。)

現在の我々にしたら、当時は高級な物に囲まれている。逆に言えば、おひつの値段が正当で、他のボールやインスタント食品の値段全てが異常という言い方も出来るのではないか。(勿論、その仕組みを作る為に、大変な苦労をしたひとがたくさんいたわけですが)

二つの仮説を鑑みて、食べ物へのリスペクトが根底にあるとすれば、(もしくは、この推測がまと外れでも、幾らかその要素を備えているとしたら)それは素晴らしいものだと思いました。ジャンクなものや、使い捨ては結果的に効率が悪い。慈しむ暮らしをしたい。と考えて、手仕事に携わっています。

そして、ものづくりや価格の在り方。輸出入やプロダクト、この為に、どれだけの努力の歴史があるかは、想像する事も出来ませんが、歪みやリスクは、日々直面している問題だと思う。国産材、環境、循環、全てに向かい合う気概が込められているのではないか。

日々や、土地を慈しむ。というと、かなり抽象的な感じですが、個人的に言わせてもらえば、これは趣味やブームではなくて、今後の社会や世界に必要なもの、欠けているものだと思う。おひつは、贅沢品なんかじゃあない、人生に、必要な物だ!と、解釈して、購入しました。これからの世の中に対して必需品。

…などなど、買物一つでこんなにうだうだしてるので、とても楽しく暮らしています。

あと、米については少し調べようと思います。

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