高橋源一郎の評論

もともと、穂村弘について調べようと思って開いたら、とても面白かった。さすが、とても面白く、気軽に読めるように出来ているのですが、古典とか思想家とか、多ジャンルの話ががんがん入ってくる。

 

『文学じゃないかもしれない症候群』

幽霊の話、とみせかけてマジックリアリズムと読みのレベルが三段階にメタ化してきた話。(ドン・キホーテに如実に出ているそう)

ひょうたん島から始まるユートピア論(ダルコ・スーヴィン『SFの変容』)

マンガの絵と言葉の話から、言文一致の問題(柄谷行人や二葉亭四迷)

小説や物語としてのファッションやモード(ロランバルトやル=グウィン)

 

その他、詩に必要な乱暴さについて。量子力学が、比喩でしか説明できない概念を多く使っているの事と、ジョイスやベケットに関連する言語の限界について。アレゴリーとシンボルについて。マルクス以後の全体化と戦後文学。家畜人ヤプーと良心について、など、真正面からの評論もありました。

 

『大人には分からない日本文学史』では、自然主義的リアリズムについて多く書かれています。樋口一葉の小説には、新しい散文があった中でも、鍵かっこや会話と区別のつく散文を用いず、古典的な美文を目指している。それは、今でこそスタンダードな言文一致に「リアル」を感じていなかったからではないか。という話。五感を活かしたリアリティに溢れている、樋口一葉や、国木田独歩、綿谷りさを共通項として並べ、理想や観念を直線的に目指す物は古びるが、詩のように安易な着地をせず、寄り道をしながら音感、気質や感情を描いたものは古びない。としています。綿谷りさによる実際に見たものをそのまま描写する自然主義的リアリズムを越えたスローモーション的で過剰な描写や、視覚を越えた比喩によるリアリズムは、徹底して自然主義的リアリズムを追求した結果、反転して非リアリズム的な領域に入ったのではないか。目に見えるように書くだけで、目に見えない内面を描くことが出来るのか。近代文学の背骨である、自然主義的リアリズムに対して、世界を実相のまま描こうとするリアリズムが、樋口一葉や綿谷りさではないか。という話です。

近代文学の生んだ「自然主義」「リアリズム」「私」という三位一体の武器が、戦後から使用不能になった。穂村弘の言葉を引用して「敗戦処理」としています。石川啄木が、「人生をどうするか?」という問いに答えようとしたのに対して、同じ物を見る現代の我は、そういった闇に立ち向おうとしない。武器をとる事に、感覚的な反発すら抱いている。一八八〇年頃に成立した、小説のOSが更新されようとしている。など。

 

個人的に気になったところだけかいつまんでみました。もっといろいろ書いてあります。

普段の箒の仕事に関係ないように見えますが、我々の様な仕事の道具を使ってくれる人の自我観には、すごく関心がある。というか、要なんじゃないかとすら思っている。
近代的自我(って言い方もすごく乱暴なんですが)や自然のまま説明するというリアリズムが長いスパンでみれば無数の方法の一部でしかない様なニュアンスもあって、共感しました。口語が分かりやすく、文語が分かりにくいというのは誤解で、口語のほとんどはノイズに過ぎない。そして、私たちが生きている場所はは口語が生きる場所にある。というのも大変心に残りました。

暮らし系と言われるような女性に使ってもらうのと、茶人のような人に使ってもらうのにはとても大きな幅があるし、その二者の間には理念とか、世界観とか、理想的な物事の在り方がほとんど剥きだしになっている様に思う。ものを選ぶってのはそういう事だし、それを実際に動かしていく、とてもエキサイティングな現場だと思っている。

自分がどういう世界像を持っていて、なにをどう作りたいかってのは結構わかるんですが、人はどうあるべきか。というのは結構難しい。(一つになったら、それはそれで恐ろしいですが・・・)でも、人が実はどう考えていて、どういう環境にある。ってのは、言葉を投げかける際に一番大切な事で、よく考えています。