「哲学の密かな闘い」永井均

「哲学の密かな闘い」 永井均 2013年

永井均の本は、好きです。過去の研究や解釈だけでなく、哲学者として、自身の哲学を深く掘り下げ続けているように思います。

その中でも、この本は連載などのまとめでもありながら、永井均の重要な考えがきちんとまとめられている、しかも、新聞や、高校生に向けての講演なども含まれているので、かなり噛み砕いてあります。

 

哲学のニヒリズムという章があるのですが、ソクラテスが、「相手の語ったことが無根拠であることを示した」ように、「哲学は、ただ何かが無いということだけを燃料にして燃える高次の、あるいは逆転したあり方である」と言っています。

 

そのため、多くは、道徳は可能か、自己はどう存在するのか、世界は存在するのか。など、我々の生きている根底をひっくり返すようなことばかり書いてあります。それらは一見、疑う余地のない疑問かと思いがちですが、読めば、それらが如何に危うく成立しているか、暗黙の前提に縛られているか、みるみる世界が剥がれていく様な本です。

 

それらは簡単な疑問で、例えば

誰でも、自分自身と他人を混同する事は無いけれど、それは恒常的に意識と体が連動しているからというだけではないか。同様に、世界が存在しない訳がない。と、どう証明するのか。

「心から「悪かった」と思うことを目指した、そのことが行為の趣旨であるような行為は可能だろうか。」(きっと、完遂した時には良かった。と思う。ここで、道徳や罰などは、どう作用するのか。)

自分の未来の苦痛や、他者の苦痛を、今の自分の苦痛と同じものだという前提が無ければ、道徳や罰は成立しない。

物の認知に関しても「緑だ」といっても、実は、「緑だと思われる色に見える」という事を略しているだけで、疑い続ければ、言語は成立しない。自分や今が区別できる実体だと仮定して、時間、空間として隣り合っているという暗黙の了解がないといけない。

などなど、どんどん掘り下げていけばきりがなく、矮小化した話題になってしまうのですが、個性、とか、自由、という言葉について、読みながら考えていました。

■■■■■■■■■■
自由にやろう。とか、自由にして良いよ。なんて、聞くことがあって、しばしば違和感を覚える事があった。表現のシーンにおいて、本当に、何の禁制も設けず、やってしまう何て事はありえないから。そういう時、表現の自由だからと言って、人を殺したり、法に触れる事は想定していないだろうと思う。世界が存在しない想定でやってもよいのか。少なくとも、共通言語をどこかしらで守らなければ、評価の俎上に乗る事は無い。それどころか、そういう時に限って、その人なりの美的守備範囲や想定が頑なに存在していたりして、そこに触れると、途端に手のひらを返された様な反応を受けてしまう。また、個性が、やたらと重要視される。自己と他人と、世界の違いや、理由すら、分かっていないというのに。

共通して言える事は、膨大な量の仮定と、可能性を殆ど締め出してしまう程の決まり事の中でしか物事は動いていかない。という事だと思う。
これは決してネガティブな言い方ではないのだけれど、半端に、世界が自由であるとか、個性を確立できるという様な事を流布してしまうから、人は惑うのではないか。
規則があるという事は、世界や、良し悪しの基準があるという事で、目的を定める事が出来るという事で、ルールがないスポーツがない様に、ルールがない判断は存在出来ない。寧ろ、自ら積極的に狭めていく事が必要なのでないか。既成概念の対義語は自由ではなく、ルール作り、などというと、先入観の対義語は決めつけ、みたいな話になってしまうのですが。視点を定めるとは、そういう所なのかなぁと思います。