感じる事と、知識は同一である事。人は、自ずと統一される事。「善の研究」

主には、統一作用という話を、軸にしている様に思いました。
例えば、感覚と思考。全く別作用様に思えますが、違いは程度問題であって、機軸になっているは、それら対立する傾向要素を統一する作用、という事です。

感覚、何か見る、触れる、感動する際には、既に思考が始まっています。過去~に似ている。丸い、四角い、赤い。など、瞬間的に人はカテゴリに分けられてしまう。感覚は無意識に発生しますが、そこで生まれた丸い、赤い、などを、意識的に追い詰めて行くと、思考になる。
逆に、考える。という事は、常に意識している様ですが、形なんて無限にあるに勝手に丸い。と判断したり(どこからどこまで丸くて、どこから四角いか、なんて、出来ない線引きだと思われます。)決めていく。

感覚、思考、どちらも領域、傾向問題であって、それらが統一されて合わさった物を、我々は認識としている。という様な 話だと思います。

(勿論、有名な本なで、ここまで単純な話だけではないです。物が実在するには、統一作用が働いて、差別化が必要な話や、自主的な統一が能動、統一される場合は所動。様々な統一作用が衝突した時、始めて認識が出来る事など色々な話が載っています。)

意識、現象が真に統一された時は、寧ろ無意識になる。という話もあります。欲求が生まれる、意識的に努力する、という時には、現実と理想距離があるであって、本当に自在に物事が進む時には、無意識。職人仕事や、絵を描いている時でも、似た様な事はあるかなぁと思います。(知識深淵なるは、主観を没し、自然に合する事…など。でも、心や、物事、自然摂理が、一番正しいというは最もだと思います。)

について、面白いと思ったが、「余は自己本分を忘れ徒らに他為に奔走した人よりも 、能く自分本色を発揮した人が偉大であると思う 。」という辺りでした。
自然に合する事が、深淵な統一、思想や行動に近づくですが、各々、人は社会性を持った統一作用を持っているで、私利私欲でなく、個人個人持つ理想と現実統一に向かって行く事が、であり偉大である。という様な解釈をしました。