何かを表現する時、人は悪へ踏み入っている「文学と悪」(ジョルジュ・バタイユ)

タイトルからして刺激的な本だった。

入門書に依れば、バタイユの考え方においては、フォルス(力)とピュイサンス(力への意志などと訳されている)が鍵になっている。

従来の哲学の様に「堅固で力強い体系を備え威猛高」で「自分の主張があたかも普遍的に正しいかのようにその妥当性、正当性を誇る」連続した理性的な「力への意志」をピュイサンスとしている。これに対して「浮遊する意思」、その場その場で発露する力そのものをフォルスとしている。「好運への意志」とも言っているこの態度は「無秩序」で「不連続」「瞬間的」で「非力」である。近代西洋の理性を中心に置いた進歩史観に対して、バタイユは「反復の歴史像、終わりなき流動の歴史像」を描いた。「この流動は自然界の生滅流転の運動と混然一体になっている。自然を動かしているのと同じ非理性的な力が人間の中にあって、これが歴史を動かしている」という立場だ。

 

「文学と悪」を読んでいても、理性的に白黒判断を付けようとしても追いつけない部分があり、そこに、バタイユの行き先がある様に思える。これは「超道徳」とも形容されているけれども、バタイユは、秩序だったところ解を求めない。

善が自由や解放、秩序を求める時、必ず通俗化や強制、弾圧が付きまとう。

悪は、極少ない範囲の利益だけを求める事であるけれど、突き詰める先には純粋な力があり、蔓延した力は神聖化される。

 

バタイユは、「文学と悪」の中で様々な作家、エミリブロンテやカフカ、プルースト、サド、ボードレールなどを批評していく中で、正義と悪、死と生、聖性と悪、純粋と悪、など、様々な項目を対立させるよりは寧ろ撹乱させていく。

 

これらは「文学」と言われていながらも、文学だけに限定される話ではなくて、あらゆる表現行為に通じる態度だと思う。吉本隆明は解説でこの考えを「誰も傷つく事なく取り出す事は出来ない」と書いている。また、夏目漱石も、文学に際して「何かしらの勧善懲悪」と書いていた事を強く覚えている。表現する時には何かを強く肯定し、表す時に初めて形が出来る。その時には、常にその反対に立つ人を傷つけないといけない。これらは常に葛藤を生んでいる様に思う。より多くの人に喜ばれる、理解される作品を作ろうとしても、力が強大になるほど、弾圧や対立を避ける事は出来ない。しかし、これらの対立を乗り越えた先があるとして、その領域をバタイユは「超道徳」としたのだと思う。

作る人は、常に、答えを求めて葛藤するものだと思うけれど、バタイユは一回り大きな地平を与えてくれる様に思う。

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