時枝誠記「国語学言論」

西洋言語学でベーシックなソシュールの言語理論を批判し、言語過程説と言う理論を提唱した本です。
言語学、記号論、とは言え、厳格で精緻な展開は徹底した哲学が感じられて、とてもエキサイティング。

ものづくりと記号論と言うのも面白いなと思って感想をまとめました。

□□□□□□□□本のまとめ□□□□□□□□

言語過程観に対する、言語本質観とは、言葉に概念が当てこまれていて、それを引き出して我々が使用していると言う事です。しかし時枝さんに言わせると言語の本質は「概念ではなくして主体の概念作用にある」。
言語が成立するのは「言語それ自身が媒体としての職能を有するからではなく-中略-同一概念を想起するし得る習慣性が万人の間に成立しているからである」とあります。

辞書を引けば言葉の意味は載っていますが、それを組み合わせれば言語の理解に直結するかというとそうではない。
例えば
「大黒柱が倒れた」と言った時、本当に柱が倒れたのか、それとも家の働き手が倒れたのか判断出来ない。「山」と言った時、それが自然の山なのか危機的な状況の事なのか、もしかしたら誰かのあだ名かも知れない。けれども、我々は会話を成り立たせる事が出来る。これは、言葉が道具としてではなく、習慣によって成り立っているからではないか。と言う話です。

その他の例だと、言語は歴史の中で風化して、変遷していく岩ではなく、多くの人に描かれ形を変えていく絵画と言う例えもありました。

言語過程説自体はこれ位ですが、その後も各論で音声、文字、文法など、次々に紐解いてあります。

□□□□□□□□□□以上本のまとめ□□□□□□□□□□

個人的な感想として、言語に関しても面白いですし、ものを表現する仕事としても、大いに繋がる話だなぁとは思いました。
時枝さんの批判するソシュールに依れば、言葉はシニフィアンとシニフィエ(表現と内容。極端に言えば、標語の「ダメ絶対」の意味がシニフィアン、フォントや文字そのものがシニフィエと言う様な)などと言いますが、意味なんて人や環境で幾らでも変わってしまう。

赤色を見た時、女性らしいと思うか男性らしいと思うか、それとも政治的と思うかなど、本当に何も決まっている事なんか無くて、それでもある程度の人数の人とは感じ方を同じく出来てしまう。本当に、全て伝達行為と言うのは習慣で成り立っていると思う。
(例えば原発と言う言葉だって、出来た頃は夢に溢れた装置の極みだったかと思うのです)

漆を見て、かっこいいと思うか古臭いと思うか懐かしいと思うか。丸い形を見て可愛らしいと思うか単調と思うかありがちと思うか。
そう言う無数の要素と習慣、積み重ねて来た歴史と、血肉となった習慣が合わさって、一つの言葉になっているんだなと思います。
そんなの、全部根拠を理論付けて行くなど途方も無いので、表現活動では直感が大きな力を持つのだとも思いました。

時代も環境も、こうして行く内にみるみる変化して行くし、自分が作ったものの意味も刻々と変化している。常に疑って、感じ取って、信じて行かねば。と言う感想でした。

(また、余談になりますが、単語に関する話の中で、そもそも日本語において所謂単語として括る事が困難と言う話があります。この本と言った時、「こ」は独立して使えないだけで単語ではないか。ヒノキ、クスノキ、など一単語であるが元来は別の言葉である。など、疑問の余地のある例が多々あります。その為、この本では詞と辞と言う分類で文法を解説していて、日本語に比べると印欧語は詞辞が結合した文節に近いと言う記述があります。そもそも、日本語は主語述語などで分けられないと言う話も良く本には載っていますが、何の疑問もなく学校でそう習うのは凄い事態だなと思います。)

 

1940年の本。全く古びない事に感動。