日本<工芸>の近代

日本<工芸>の近代

2009年、森仁史氏による本。タイトルにある通り、またはプロローグの「<工芸>の今日的なあり方がどこから来たのかを論じ、どこに向かうかの論議の基盤」を目的にしており、所々解釈や意見も記してあるものの、基本的には史実に基づいて、工芸の成立や動向をおっている様に思います。

元々、工芸や美術という言葉がなかった事はよく知られていますが、これらは、思ったよりも新しく、また、予想よりも不安定な概念である事が第一印象でした。

殆どメモに近いようですが流れを追っていきます。

工芸という考え方は、西欧への接近と、日本の近代化に並行して育ってきました。カテゴリーの分類や体系は、パリ万博を始めとする博覧会に端を発していて、富国強兵や生産構造の発展の為にも、不可欠であったようです。ウイーン万博で成功を収め、その国内版、内国勧業博覧会も、明治十年より、四年ごとに開催される。具体的に、日本でのものづくりを提示して、通念を形成することで徐々に工芸という言葉も形を表してくるようになります。その目録よりカテゴリーの変遷をみる事が出来るのですが、明治十年、一回目では服飾、教育、医器、軍器など、素材や技法よりも用途が多くあります。第三回には工業、美術。第四回明治二十八年に、初めて工芸と美術、などの分け方が現れてきました。また、明治九年より「温知図録」という意匠集などを出版して、勧業をしています。

概念の整理と産業化が並行しているので議論が安定しないのも当然の話ですが、大正三年、東京高等工業学校の図案科廃止の反発運動以降、安田祿造が時事新報に長大な論文を掲載していて、工芸と工業を分離する事を主張しており工芸を「工業により生産されたる材料を用ひ、之に美術的技巧を加味して機械的或いは手工的に実用品或いは装飾品を作ること」と定義しています。昭和六年には奥田誠一が純美術(絵画・彫刻)・応用美術(工芸美術・小美術・建築)といった分け方をしており、少しずつ現在の分け方に近づいている様に見えます。

また、大正八年、生活改善同盟会が半官半民で作られ、椅子式の生活を、博覧会などで推進しました。

一方、今和次郎などが人々の生活に目を向ける中、生活の場に作品を向けるべきだとする、无型(大正一五年)など、技巧や産業デザインを重視する立場に対して、生活の場を舞台とする集団が現れる。昭和二年に、国画創作協会に工芸部と彫刻部が創設され、翌年には国画会に再編成された中、濱田庄司やバーナードリーチが会員となり、活躍する。そして同年、やっと、帝国美術院展覧会に、第四部美術工芸が設置された。帝展などによる、美術としての自己確立に加えて、生活派は、「現代生活に響く美を追求」した。

その他の新しい流れとして、昭和四年バウハウスの紹介や「実用的合理的な生産品に美を見出す立場」の人々や、大正一五年以降の民芸運動などがある。昭和四年、国宝保存法公布。これにより、文展や学校とは別個に生き続けてきた茶陶の美意識や、収集物も、美術の領域に取り込まれる事になる。(取り合わせ、特に茶杓は顧慮されなかった、また、古物の再利用も多い釜などは、「制作されたモノとしての美術品」という考え方とは相容れなく、現代でも古美術の現代美術への否定性はダブルスタンダードのまま続いている。という話は興味深いと思いました。)

昭和二十五年、文化財保護法公布。無形文化財で、工芸作家の作品ではなく技術を保護出来るという話。指定の始まった三十年にも、柳宗悦が高い技術=芸術的価値ではないという批判をしているが、人間国宝という呼び名は、明確なヒエラルキーを作った。

昭和二十九年に、第一回無形文化財日本伝統工芸展が始まります。この時が、伝統工芸という呼び名の始まりである。日本工芸会発起人会での「”伝統”という字句は古いものという印象を与え、若い人々に誤解を招く」といく発言や、「伝統工芸展は会員が危惧したように国民にはやや後ろ向きと受け取られ、三回展は三越から打ち切りの申し出にあったりもした」などの記載があります。第七回以降、一般公募もしたが、文化財保護委員会との共催で、日本工芸会は毎年助成金を受けていたそう。

まとめ終わり

工芸、クラフト、伝統、暮らし、など、我々の様な仕事をしている限り、避けられないワードが多く出てくるし、ソースを明示して、丁寧に追っている本。

個人的には、考え直した事が多くありました。
具体的には、

・伝統工芸は、古くより格式と地位を持っていたものであるが、最近になって危機に瀕している→手仕事自体は長い歴史があるが、伝統工芸という言葉(即ちその考え方)は、生まれた時から、決して前向きな表現ではなかった。それが、現在では、懸念通りに加速が進んでいる。

・暮らし系→または、メディアでの民藝ブームなど、如何にも現代らしい新しい動きかと思っていたけれど、機械化や量産が始まると間髪入れずに、生活こそがフィールドだと戦った人が昔から多くいた。勿論、民藝はその流れの中で圧倒的な成果や実績を作り続けているけれど、完全な異端というよりは、流れで捉えると、よりその必要性や背景、時代との戦いを見られる気がします。

・クラフトの新しさ→体制の強い工芸に対して(名前は出しませんが)パイオニアの人々がその体制を正面から破壊して、今のクラフトブームが出来た。様に認識していました。勿論、聞く限りかなり封建的な傾向もあったようだし、偉大な転換はあったように思う。けれど、その壊された体制自体は100年も経っていないもので、それ以前の普段遣いの手仕事の歴史からしたら、これは壮大な揺り戻しだったのでは。という思いも過ぎりました。

かなり、個人的な解釈もありますが、ちょっと、何枚か皮を剥いて、手仕事について考えられる気がしました。今後どういう仕事をしていけば良いのか。なんていう話もしばしば聞くけれど、我々に関して言えば、(当時の)技巧派でも、産業派でもない訳で。生活を基軸に、惑わされずにやっていけばいいんだろうと、勝手に後押しされた気にもなりました。工芸という言葉や、その背景の博覧会、産業化は全て経済的、国家の近代化の為に起きたのだから、あんまり言葉に捉われない様にしよう。言葉より、こちらの手の仕事の方が遥かに古いし、答えも、その中に入っているんじゃないかと思います。