理想的な生き方について―「食べる西洋美術史「最後の晩餐」から読む」  

Degi Hari

「食べる西洋美術史「最後の晩餐」から読む」 宮下規久朗 2007年

・この本について

人間が積み重ねてきた価値観に関して、ずっと関心があります。

文化や芸術と共にあった貴族は、基本的には豪華絢爛な物や高級品を嗜好してきましたが、清貧やわびさびなど、金品のみを至上としてきた訳ではないようです。

自分たちの目指す仕事は、恐らく高級な工芸の極みよりは、足る事を知る、身近な手仕事である様に思っています。素朴な物を良しとする嗜好は、どのように生まれ、考えられてきたのか。良さそうな本だったので手に取ってみました。お茶や民藝の本を開くのが早いとも思うのですが、西洋ではどうか。という所で、ちょうど良い本でした。

 

キリストは、パンを自らの体、ワインを自らの血として弟子たちに与えました。聖餐や最後の晩餐に見られるように、パンやワインを神聖なものとしています。そして、今でもヨーロッパ圏では食事の基本要素である様です。

(本書の中でも、最後の晩餐だけをピックアップしてみると食卓はパンとワインのみか、+肉や魚。というパターンになっており、パンとワインが象徴的で、重要なものであるのが分かります。)

 

・豪奢と清貧

ヨーロッパ貴族は、パンとワインどころか大変な食道楽をしていたようだけれど、本来聖書において、食道楽は推奨されていない。七つの大罪にも、暴食が含まれている。

また、アダムとイブが林檎を食べたことが罪の始まりであることもあるけれど、キリスト教は食との関わりが深いようです。西洋では多く食事の絵があるけれど、日本では明治まで、食事単独の絵画は皆無であったとあります。

イエスズ会創始者が著した「霊操」について引用されており、そこでは食事の間も神や最後の晩餐の事を思い、食べ物に心を奪われる事を警告しています。そして敬虔な信者であるほど、強力な禁欲を基盤にして生きている事が分かります。(ここでは、ダニエーレ・クレスピの、聖人がパンと水だけを飲んでいる絵をあげています。)また、食前の感謝の祈りも、良いモチーフとして多く描かれていたようです。

 

ここで、「清く正しく」という生き方は、正しい事とはされていたけれど、かなり敬虔で強い禁制の実践として成立していた事が分かります。例えば、日本では生け花の様に、過剰な装飾よりもシンプルさを積極的に美しいとする美学がありますが、それらと比べれば、消極的な否定としてのシンプルという感じがあるのではないでしょうか。洗練よりは、簡素に近い様に思います。

 

その反面、禁制への反動として、宴会の絵画も多くあった様です。十九世紀までは食料が不安定で貧しく、略奪の危険もある為、祭りやどんちゃん騒ぎで、時節ごとに消費してしまう習慣もあり、都市の富裕層や商人にも、理想としての絵画でした。(手前に食べ物、奥に聖書のシーンなど、作為的に教訓を組み込んだ絵画も多くあった様です。)

 

・洗練された美しさ

少し、日本との共通点を感じる様な絵画もあります。アトリビュート(持物)によって、特定の人物を示唆する様に、暗喩や象徴が多様されるけれど、オランダのヴァニタスという、頭がい骨、時計、花、現世でしか価値の無い金品などの静物画は暗喩であるにしろ、無常観を強く感じます。また、十七世紀頃スペインで流行した静物画(ボデゴン)も静謐で、高い宗教性を内包しているように思います。暗い空間に、数点の静物が静かに置かれている。あからさまなメッセージの指示は無く、瞑想を促す様に見えます。

 

・美への辿り着き方

キリスト教において偶像崇拝が禁止されている事も関係が深いと思われますが、西洋美術の世界では、事物に対して意味や象徴を孕ませる、という姿勢が広く根付いていると考えられるでしょう。日本においては、偶像どころか、自然物や身の回りのそのものを神としてしまうアニミズムがいまでも残っています。(仏教との混交も勿論多くありますが、~を無駄にするとバチがあたる。などは、分かりやすい例かと思います。)

「論語読みの論語知らず」などと言われる様な考え方は、志向即ち美即ち実践とするような一体化が見られますが、西洋美術史では事物を読み解き、神や美に辿り着くという段階を踏むように思います。また、それらが、論理的思考や科学を発展させた事も事実です。

現在我々は、思考様式としてはかなり欧米的、科学や論理、理由に重きを置いたスタイルがある様に思いますが、美的感覚に関しては、少しチャンネルを変える事で、より奥行きや発展を得られるのではないかと考えています。

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